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キリスト教と増田に関するdalのブックマーク (2)

  • 君の質問はひねくれてはいるが特に複雑ではなく、神学の訓練を受けた神父..

    君の質問はひねくれてはいるが特に複雑ではなく、神学の訓練を受けた神父が答えられなかったというのはにわかに信じられない。君が自分のエキセントリックな思考過程を十分説明しなかったから、神父に質問の意味が伝わらなかったのではないか。 さて、キリスト教において、基的に殺人は罪であり、禁止されている。そして、「神の意思に反して生き残った者は殺さなければならない」という教えも特にはないので、君のまわりのキリスト者が君を殺そうとは思わなかったのは当然だ。不思議なことは何もない。 そもそも君のいう「神の意思」というのは君の推測にすぎない。君は神を信じていないと思われるのに、なぜわざわざ神の意思を推測しようとし、しかも自分の推論がキリスト教的に正しいことに自信を抱いているのかは疑問だが… 手術を受けた子らの中から、ランダムに死者を出すのが神の意思とは思えない。 とすると、手術を受けて生き残ってしまった私は

    君の質問はひねくれてはいるが特に複雑ではなく、神学の訓練を受けた神父..
  • キリスト教の人に聞いてみたい:私の生存は神への反逆か

    追記2: 結局、私には、「私が助かったのは医師の努力の結果である」と「私が助かったのは神の意志である」は両立しないようにしか思えません。 医師の努力の結果であったのなら、努力次第で結果が変わっていた、ということですので、神の意志ではないはずです。 神の意志であるとするなら、医師が努力しようがしまいが、神の意志によって手術の結果が決まっていたということですので、医師の努力は関係ないはずです。 私には、後者の見解は、医師の努力や、医師の技術を向上させるために実験台になって死んでいった子らへの冒涜に聞こえます。受け入れられません。 とすると、私の取れる見解は、前者しかないのです。つまり、私の手術が成功したのは医師の努力ではあったが、神の意志ではなかった、と、考えるしかないのです。 追記: 私が手術で助かったのが神の意志であるなら、我々が参加した実験的手術には何の意味があったのでしょう。 私が手術

    キリスト教の人に聞いてみたい:私の生存は神への反逆か
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