・私にとって美術とは計量可能な事物からの唯一の離脱としてあるのかもしれない。量や交換とはコミュニケーションや経済を含んだもので、だとするならそれは今の環境の大部分を覆っている。 ・だから、美術はけしてコミュニケーションを誘発するツールだったりはしない。芸術は常に交換できない経験であって、例えば私が見たフィリッポ・リッピの「受胎告知」の経験は、決して誰ともコミュニケートできない。あるいは、私の制作の経験は、けっしてだれともコミュニケートできない。 ・そこでは「量」が常に問題になる。ここでよくある反応が「量」という野蛮さへの抵抗として「精密さ」を対峙させる事だけど(アカデミズムとはそういう物だと思う)、もちろん精密である、ということはある基準に対して比較検討可能な「計量可能性」を担保にしているからこそ実現するのだ。 ・だから、計量可能な環境、あるいは交換可能な環境(言い方を変えれば計量可能だっ