タグ

関連タグで絞り込む (1)

タグの絞り込みを解除

deathに関するdice_queのブックマーク (2)

  • 弟の相談を笑っていたら死にやがったw

    2年前、弟が自分のマンションの風呂場で死んだ。死亡診断書によると心筋梗塞だった。もともと心臓が弱かったらしい。 先月、父親の納骨に京都の墓にいった。弟の骨を入れた袋は、去年、納骨したばかりだったので、まだ、新しかった。 父親と弟は仲が悪かった。父親は飲んだくれで、昔、酔っぱらって自動車に轢かれたことがあった。警察から電話があってお宅の御主人が道で酔っぱらって道に倒れていますので救急車を呼んでおきましたと連絡があった。後日、近所のひとにきいたら、確かにその夜パトカーがその付近にとまっていたらしい。救急車が運んだ病院で父親は服を脱がされると、身体にはタイヤの跡がついていた。事故証明かなんかをもらおうと警察に連絡すると、その夜、だれも酔っぱらいを発見して救急車を呼んだ警官なんていないといわれた。そんなことがあれば必ず記録には残るそうだ。だれが父親を轢いたのかは謎のまま残った。 アル中気味の父親は

    弟の相談を笑っていたら死にやがったw
    dice_que
    dice_que 2009/07/19
    thanks
  • 希有な人 - 東京永久観光

    ★自死という生き方/須原一秀 asin:4575299987 老いや病のなかで受動的に死ぬのではなく、健やかなうちに能動的に死ぬべきだ。著者はそう考え、そのとおり自らの命を絶った。その思索と実践の記録がこの一冊。 なにか強引な理屈や激しい感情の文言が迫ってくるのかというと、その予測は完全に裏切られる。恨みや怒りを持てあましたとか、憂や孤独に耐えきれなかったとか、そうした理由でもない。まったく逆。人生を味わい尽くしたという冷静な納得こそが、死への踏み台になっている。不思議なことだが、この点が最も際だっている。 ソクラテス、三島由紀夫、伊丹十三の名を先人として挙げている。著者と同様の熟慮によって自死したにちがいないと分析しているのだ。ここで印象的なのは伊丹十三の弁。 「私は、ですね、一と言でいうなら「幸福な男」なんです。然り。私は幸福である」。そして正月に近所のみかん畑を見ながら家族で歩いて

    希有な人 - 東京永久観光
  • 1