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ブックマーク / note.com/free_will (2)

  • 非常勤講師を続けてきて|山口尚

    哲学的な何かを書くときに最も重要なことのひとつは《自分が何を引き受けて書いているか》に自覚的であることだ。ただ書くだけでは、自分が書かなくてもよかったような「顔の無い」文章ができあがる。言葉へ自分の表情を与え、それを「自分の声」とするには、自分が何者なのかに向き合う必要がある。――以下では、15年以上非常勤講師を続けてきた者として、それがいったい何を帰結するのかを書こう。 はじめに明確に述べておけば私は自分が非常勤講師であることを恥じていない。常勤に採用されるかどうかは運次第であって、自分がコントロールできることの範囲を超えている。他方で私はこれまで、自分のコントロールの及ぶ範囲にかんして、精一杯やってきた。就職面以外の運に恵まれることもあり、自分の哲学を表現するも出版している。振り返れば悪いことばかりではない。 その一方で非常勤という状態に問題がないわけではない。最大の問題はお金である

    非常勤講師を続けてきて|山口尚
    dlit
    dlit 2021/07/05
  • 糸井重里の「責めるな」について――非難の哲学の練習問題と論文紹介|山口尚

    これは非難の哲学の観点から言って興味深い事例である。まずその興味深さを説明しよう。 ポイントのひとつは、「責めるな」という文がプラグマティックなレベルでひとを責めるひとを責める働きをする、というところである。こうなると、この文の発話者は自らも行なっているタイプの行為に関して他者を責めることになる。これはいわゆる「偽善(hypocrisy)」であって、不適切な非難の仕方だと言える。 同様の議論は意外なところまで拡張できる。この点も簡単に説明したい。 ごくたまに《ひとを非難することは不正な行ないだ》などと主張されることがあるが、ここで「不正」とは何だろうか。仮に不正な行為が〈それを実行すれば非難されるところの行ない〉であるならば、先の命題――すなわち《ひとを非難することは不正な行ないだ》という命題――の発話もプラグマティックなレベルで、ひとを非難するひとを非難する意味合いをもつと解釈されうる。

    糸井重里の「責めるな」について――非難の哲学の練習問題と論文紹介|山口尚
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