寺崎保人は、近年主流となりつつある10万人説を前提として、居住可能な土地内に隈なく人が連続して住んでいるはずはなく、また下級官人の多くは単身赴任して平城京内に住んでいたと考えらることから、平城京の人口を5万~6万人程度と推定している。この内下級官人は1万~2万人で、そのほか役所で雑用にあたる人、官人予備軍といった人数を考えると、都市住民の内多くは何等かの形で役所に関わりを持っており、商人や職人などの庶民がきわめて少ないとしている。[10] 平安京遷都以後、奈良は南都と呼ばれるようになり、門前町として栄えた。 『尋尊大僧正記』によると、正長元年(1428年)の大乗院領・元興寺領の地口(道路に面した建物の長さ)の総計が937間2尺5寸ある。一方『田楽頭役方御領内元興寺領地口銭帳』によると、大永5年(1525年)の大乗院領・元興寺の地口総計1324間5尺に対して670軒とある。これらの地口表から