80年代の日本で、ふたりの偉大なベーシストを見つけるとしたら、ひとりはじゃがたらのナベ、もうひとりはミュート・ビートの松永孝義である、と言いたくなるのは僕だけではないでしょう。ニューオーリンズのファンクからジャマイカのレゲエ、UKのポストパンクまで、異種交配を繰り返しながら、ビート・パンク全盛期の日本で、ふたりはグルーヴを意識したダンス・ミュージック作りのひとりとして演奏に励んでいた。1986年には、インクスティック芝浦ファクトリーの「東京ソイソース」がそのうねりの拠点となって、S-KENのホットボンボンズ、ミュート・ビート、じゃがたら、そして松竹谷清のトマトスの4バンドが集まった。 初期のじゃがたらは、いまからざっと30年ほど前の下北沢のとあるバーにたびたび集まっていた。当時その店で働いていたのがトマトスを結成する松竹谷清、通称、清さんだった。パンクの熱が容赦なく残っている時代において、
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く