野矢茂樹氏は近著『語りえぬものを語る』(講談社)において、自由を相貌の一つとして描くという提案をしている。それについて少し考えてみる。 「自由の相貌」とだけ言うとちょっと抽象的だが、ある状況をこうすべき相貌とも、ああすべき相貌とも理解できるという意味では、多相貌的に現れるということが自由の相貌だと理解することもできるだろう。ジムに言ってから御飯を食うことも、ご飯を食ってからジムに行くこともできるように思われる。このような状況は、複相的な相貌を持って現れているといってもいいだろう。ちょうどアヒル・ウサギがそうであるように。いずれもそれぞれにふさわしい文脈を補ってやれば、それぞれの物語のもとに現れるだろう。いずれの文脈も補うことが可能である、自由に想定できるということが、自由の直観の中にあることは確かであろう。 しかしひょっとして実際に実現している文脈は、一つに確定しているのではないか? その