ボルヘスの、どろり濃厚・短編集。 読者の幻視を許容するフトコロの深さと、誤読を許さない圧倒的な描写のまぜこぜ丼にフラフラになって読む。これはスゴい。特に「南部」と「円環の廃墟」は大傑作で、幾重にも読みほどいても、さらに別のキリトリ線や裂け目が現れ、まるで違った「読み」を誘う。シメントリカルな伏線の配置や、果てしなく反復される営為が象徴されるものを、「罠だ、これは作者のワナなんだ」と用心しぃしぃ読む。 それでも囚われる。語りはしっかりしてて、描写は確かだから、思わず話に引き込まれ、知らずに幻想の"あっち側"に取り込まれる。どこで一線を越えたのか分からないようになっているのではなく、「一線」が複数あるのだ!そして、どこで一線を越えたかによって、ぜんぜん違ったストーリーになってしまう。解説で明かされる「南部」の超読みに、クラッとさせられる。語り手の夢なのか、語られ人の夢なのか、はたまたそいつを読
先日、9月27日、秋葉原で在特会*1のデモが行われました。デモを行う街道で、一人の男性がビラに「排外主義 反対です」と書いて、無言で立ちました。在特会の人たちは、男性を取り囲み、日の丸を掲げて、男性を壁際に追いやりました。杖で殴ったと証言する在特会の人もいます。男性は警察の保護もあり、集団から逃れました。その様子を動画に撮り編集した人がいます。おそらく在特会のメンバーもしくは支持者でしょう。以下にリンクします(実際に殴っている様子もありますので、ご注意ください) 動画について、「排外主義はともかく、暴力はよくない」というコメントをする人が、たくさんいました。 このビラを持って立っていた男性は、id:toled(常野雄次郎)さんです。toledさんは、「はてなサヨク」を名乗るはてなダイアリーの書き手です。toledさんは、すべての暴力を、暴力であるがゆえに、否定する立場をとりません。フランス
某グループディスカッションの話題で私が考えたこと。 失敗を体験する価値 まず、前置きとして、教育論。失敗事例を安全な形で体験するということは大事だと考えている。 こどものころの喧嘩などは、そういう「加減を知る」ことの大事な体験だと思う。大事に至らない状況下で殴る、殴られるという経験をしておくことで、「殴られるとどれだけ痛いのか、殴るとどれだけ相手に痛い思いをさせるのか」を想像できるようになる。そういうリアルな経験を持たないでカッとなって撲殺してしまったとか、洒落にならない。小さく失敗を経験しておけば大きな失敗をしないの一例。 子供のころはずけずけと罵り合えるのだけど、大人になると悪い部分を指摘してくれる人がいなくなる。自分を悪いと指摘する人がいないのは、自分が完ぺきだからではない。対人関係の加減なんてのも子供のころに経験しておかないと、大人になってから実地で学ぶのは辛い。1ミス即ゲームオー
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く