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こ・考察とアジアに関するfrog78のブックマーク (2)

  • バンコクで「物価」の意味を知る - 狐の王国

    いまちょっと都合でタイのバンコクに滞在している。ときおり日には戻るが、数年ほどこちらにいる事になると思う。 バンコクは非常に栄えた国際都市で、そこらの日の地方都市が見劣りするくらいの大都会だ。けれど貧富の差は激しい、超格差社会だ。 だから物価は安いと思ってた。実際安い。コーラは10バーツだし、大卒の初任給は12000バーツとか、院卒でも2万バーツはいかない。 今のレートだと1バーツは2.7円ほど。カオマンガイ*1というスープで炊いたご飯に鳥肉を乗せた料理がそこらの屋台でえるのだが、これが30バーツほど。庶民のべる事として日でいう牛丼みたいな位置づけ。レート的に考えると100円もしない激安料理なのだが、1カオマンガイ=1牛丼と考えると、こちらの当の物価が見えて来る。 バーガーキングのワッパーJrセットが99バーツで、ポテトとコーラが付いて来る。こいつは3カオマンガイなので、レー

  • しあわせの総量(追記アリ - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

    うまくまとまっていなくて、でも数日来ずっと気持ち悪いので、書き留めておく。 ブータンをほめる人、とりわけ「国民総幸福」(Gross National Happiness)をほめる人が、ちらちらネット上に目に付く。金銭的な富の獲得を生の第一目標におかない、というのは自体には反対する余地があまりないけど、わたしはこの概念が嫌いだ。いままでも嘘嘘しく嫌なものを感じてはいたが、はっきり嫌いなのだとこの数日考えてわかった。 だって「国民」「総」「幸福」ですよ? 個人の幸福じゃないんだよ? 嘘寒いとしかいいようがない。幸福てグロスで、つまり足しあげて評価できるようなものなんだろうか? そこがまず信じられない。なんというかプラトンの国家篇が追求したような幸福がそこにはあるんじゃないかという疑いが捨てきれない。つまり国家の、「国民全体」なるなにかの幸福がまず定義されていて、個人がその部分として規定されてい

    しあわせの総量(追記アリ - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake
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