邪馬台国畿内説では、纏向遺跡が邪馬台国の本拠地で箸墓古墳が卑弥呼の墓標ではないか。それだけ纏向遺跡の規模は大きく、唐古・鍵遺跡の約10倍もの広さだった。しかし、不思議なことに集落の跡があまり発見されていない。 まずは、どのような人達が纏向地区に住んでいたのだろう。纏向遺跡から発掘された土器を見てみると、伊勢・東海の土器が半分を占め、特に伊勢産の土器が多い。日本神話では、神武東征の熊野の段で、神武軍が疫病に罹った時に現れる高倉下。それによって、神武軍は生き返り、大和の地までたどり着いた。この高倉下の子孫が尾張氏。高倉下の剣の話から物部氏と関係が深い、一方で海部氏や安曇氏などと同系とされ、海人系の氏族だったようです。伊勢・東海の土器は、尾張一族だったと思われる。三輪系吉備一族を配下においていた崇神天皇が、妃に尾張氏の姫君、尾張大海媛を。祭事用土器などは、三輪系吉備系のが多い。政治の世界で、伊勢