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ブックマーク / kodaihistory.blog.jp (10)

  • 初期ヤマト王権の政治拠点(纏向遺跡編) : 古代史を探索するメンバーブログ

    邪馬台国畿内説では、纏向遺跡が邪馬台国の拠地で箸墓古墳が卑弥呼の墓標ではないか。それだけ纏向遺跡の規模は大きく、唐古・鍵遺跡の約10倍もの広さだった。しかし、不思議なことに集落の跡があまり発見されていない。 まずは、どのような人達が纏向地区に住んでいたのだろう。纏向遺跡から発掘された土器を見てみると、伊勢・東海の土器が半分を占め、特に伊勢産の土器が多い。日神話では、神武東征の熊野の段で、神武軍が疫病に罹った時に現れる高倉下。それによって、神武軍は生き返り、大和の地までたどり着いた。この高倉下の子孫が尾張氏。高倉下の剣の話から物部氏と関係が深い、一方で海部氏や安曇氏などと同系とされ、海人系の氏族だったようです。伊勢・東海の土器は、尾張一族だったと思われる。三輪系吉備一族を配下においていた崇神天皇が、妃に尾張氏の姫君、尾張大海媛を。祭事用土器などは、三輪系吉備系のが多い。政治の世界で、伊勢

    初期ヤマト王権の政治拠点(纏向遺跡編) : 古代史を探索するメンバーブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2021/12/28
    マト王権の基礎ができるのが、2世紀後半で、倭国大乱には巻き込まれていなかった。この地に集まって来たのは、伊勢・東海地方と吉備・山陰地方からでした。
  • 初期ヤマト王権の政治拠点(磐余池編) : 古代史を探索するメンバーブログ

    神話で初代神武天皇が神武東征を果たし、大和の磐余池に到着した。そして、橿原神宮の地に畝傍橿原宮を設け、そこで政を行ったとされている。神武天皇が崩御されて、橿原の畝傍山東北陵に。この話が天武・持統天皇の時に造られたとすると、政務を行っていた藤原京の側に、神武天皇御陵を設けるのでしょう。 神武天皇の和風諡号は、『日書紀』には神日磐余彦天皇と書かれていて、神武天皇は、「神」であり、「日(やまと)」の「磐余(地名)」の「彦(おとこ)」の「天皇(地位)」となる。磐余彦命なのです。現在では、磐余池は吉備池だけが残っていて、殆どが平地になっています。この吉備池は、江戸時代に農業用溜池として構築された池ですが、推古天皇の後を継いだ舒明天皇の時代に、大安寺の前身として百済大寺(吉備池廃寺)が建立され、飛鳥寺に次ぐ大きな寺院だったそうです。この磐余池がヤマト王権の出発地と考えていいでしょう。現在では

    初期ヤマト王権の政治拠点(磐余池編) : 古代史を探索するメンバーブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2021/11/22
    弥生時代には、現在の桜井市吉備・阿倍・安倍木材団地・池之内辺りが、大きな池でした。この磐余池周辺に初期ヤマト王権勢力が集結した。
  • 初期ヤマト王権の政治拠点(唐古・鍵遺跡編) : 古代史を探索するメンバーブログ

    唐古・鍵遺跡を訪問しました。最初に出会ったのが唐古・鍵遺跡史跡公園案内図の看板。この看板を元に唐古・鍵遺跡を説明すると共に所見を述べたいと思います。 唐古・鍵遺跡史跡公園でまず目に付いたのは、中国風の楼閣。唐古・鍵遺跡から発掘された土器に描かれていた楼閣の絵を元に、この公園を築造するに当たって復元したようです。の看板。池の中に復元楼閣が設置されている。この土器は、弥生時代中期後半と判定され、1万数千の土器の破片からこの中国風楼閣の絵が2個の破片から見つかった。この発見は、2003年のことです。土器に描かれた建物の絵は、西日では40数個発掘されているが、唐古・鍵遺跡からは40数個の内、15個が発見され、地位の高い人が住まいしていただろうこの楼閣の絵。橿原考古学研究所によると、唐古の集落で弥生人が土器に絵を描いていたのだろうとの見解だけど、九州や南朝鮮半島から持ち込んだとも考えられる。もし、

    初期ヤマト王権の政治拠点(唐古・鍵遺跡編) : 古代史を探索するメンバーブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2021/11/09
    唐古・鍵遺跡は、紀元前500年ころから存在していた。最盛期は、2世紀から3世紀中程まで。古墳時代が進むにつれて衰退していく。
  • 浜降り神事 : 古代史を探索するメンバーブログ

    和歌山の史跡巡りとして、和歌浦・日前宮・丹生都比賣神社です。 現在の和歌山という県・市名は、この和歌浦から来ています。万葉集の山部赤人が詠んだ「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」は、この和歌浦の状況を。山部赤人は、奈良時代の聖武天皇の時代の人で、聖武天皇の行幸の時に付き添いていた下級官僚だったのです。聖武天皇の行幸の目的は、ワカヒルメを祀っている奠供山に登られて、海の眺めに感動されて、現在の和歌浦を「明光浦(あかのうら)」と名付けられた。この海の景色を永遠に守るために、玉津島神社に「明光浦霊」を祀るように、と命じられた。 玉津島神社には、天照大神の妹の稚日女尊が主祭神として祀られています。この日女は、姫のカバネで尊は、ミコト。そうすると、稚はワカと読み、「稚の浦」。玉津島神社が創建された頃から、玉津島に広がる海を「弱浜(わかはま)」と言っていたようです。山部赤人が

    浜降り神事 : 古代史を探索するメンバーブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2021/05/10
    鉄器に関係が深い丹生都比賣神社に興味を抱いていたら、玉津島神社を知った。そして、和歌浦へ。
  • 初期ヤマト王権の政治拠点を探る : 古代史を探索するメンバーブログ

    大阪府南河内郡河南町に、大阪府立近つ飛鳥博物館があります。この博物館は、平成4年12月に開館された大阪の古代史の拠点となる博物館です。この博物館では、令和元年10月12日(土)~12月1日(日)まで、「ヤマト王権とその拠点-政治拠点と経済拠点-」という令和元年度秋季企画展が行われていて、その展示にあわせて、「初期ヤマト王権の政治拠点を探る」をテーマにした土曜講座が令和元年10月26日に開催されました。この博物館の土曜講座は、月1回の最終土曜に開催されていて、自由参加でき、学芸員や外部講師を招いて調査研究成果を発表される講座です。その土曜講座に参加しましたので、このブログで発表したいと思います。 近つ飛鳥博物館に行くのに、近鉄南大阪線で上ノ太子駅から1時間程かけて歩きました。 その途中には、仁徳天皇の時代より高津宮からこの地を通って、大和に入る街道、竹内街道がありました。 この竹内街道を歩い

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    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2019/12/02
    近つ飛鳥博物館の土曜講座から。
  • 茅の輪くぐり : 古代史を探索するメンバーブログ

    神功皇后が三韓征伐を終えて、大阪の西淀川区にある姫島に立ち寄った。北部九州から瀬戸内海を経てその当時の河内平野の入口なる場所が姫島だったのだろうか。今回は、姫嶋神社から始めよう。 姫嶋神社に行くまでに、石碑を発見。まだ新しい。観光のために大阪市が設置したのだろう。大和田街道と書いてある。この街道は、梅田街道とも呼ばれ、中之島の難波橋北詰から尼崎市大物までの幹線街道で、西国街道と合流する。姫嶋神社の側を通っているのだ。昔から参拝客がおおかったのだろうなぁ。 姫嶋神社の主祭神は、当然、神功皇后だろうなぁ。それか、韓国の神話にもある新羅王の子、アメノヒボコの、阿加流比売神(日書紀では比売語曽神)かと思っていた。それが、神功皇后の名前がなく、住吉大神となっている。 安土桃山時代の豊臣秀吉政権の時に一時、この神社が住吉大社と名乗っていたと書いてある。そう言えば、住吉大社も底筒男命・中筒男命・表筒

    茅の輪くぐり : 古代史を探索するメンバーブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2019/06/30
    スサノヲを祀っている神社で、1年の真ん中に当たる6月30日にこれから暑くなる夏に病気にかからないために行われる夏越大祓の行事で使われる茅の輪と神功皇后ゆかりの神社を訪ねました。
  • 初辰参りとみのりまいり : 古代史を探索するメンバーブログ

    大阪に住んでいるのに、日三大神社のひとつ、住吉大社に来るのは初めって、さすがに観光客が多いなぁ。弓状の太鼓橋。傾斜がきつい。これが反橋。 住吉大社は、神功皇后ゆかりの神社で、三韓征伐後に航海の安全を祈願して建てられた神社。神功皇后摂政11年に田裳見宿禰が皇后の命により創建された。以後、のちの津守氏が祭祀氏族としてこの神社を護った。祭神は、イザナミがカグツチを生んだときに大火傷をして、黄泉の国に旅立ったので、イザナキが引き戻そうとして果たせず、禊ぎをして生まれた底筒男命・中筒男命・表筒男命と神功皇后です。 住吉大社の由緒には創建が西暦211年と書かれていますが、もっと後年のように思う。辛卯の歳と書かれているので、391年ではないかと。でも、古い格式のある神社には違いない。祠も4棟もあるし。 神功皇后の時代にイザナキ・イザナミに関係する住吉三神を祀っていて、応神天皇や八幡神の祠は小さく祀られ

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    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2019/06/09
    大阪には、読めない地名がたくさんあります。今回も「我孫子」と書いてあびこと読みますし、「依羅」と書いてよさみと。それだけ、大阪の地は古い歴史が満載していると言えます。
  • 伊勢参宮神賑(発端) : 古代史を探索するメンバーブログ

    投稿を希望の方は、隠された古代史を探索する会 会員登録フォーム(https://www.secure-cloud.jp/sf/1556183261oQMTAsEd)にお名前、メールアドレス、所在地を入力して頂き、自己紹介のところに「ブログメンバー希望」と記載していただければ、古代史を探索するメンバーブログの招待状をお送りします。 上方落語で、「ボケ」の喜六と「ツッコミ」の清八が伊勢参りに行く噺があります。三代目桂米朝に入門すると最初に習う噺『東の旅』の中での「伊勢参宮神賑」です。江戸時代になって、一般市民の生活がよくなり、お伊勢参りが一つの娯楽に。それを題材にした上方落語の演題です。今日は、その落語の出足のところに併せて神社巡りをしました。

    伊勢参宮神賑(発端) : 古代史を探索するメンバーブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2019/05/24
    江戸時代に出来た上方落語の噺でも語られるように、大坂からお伊勢参りをする場合、暗越奈良街道を大坂人は使ったのだろう。その通り道に深江稲荷神社があった。
  • メーリングリストについて : 古代史を探索するメンバーブログ

    投稿を希望の方は、隠された古代史を探索する会 会員登録フォーム(https://www.secure-cloud.jp/sf/1556183261oQMTAsEd)にお名前、メールアドレス、所在地を入力して頂き、自己紹介のところに「ブログメンバー希望」と記載していただければ、古代史を探索するメンバーブログの招待状をお送りします。 「ちょっと! ソフト」でパソコン操作:Eメールって、将来なくなると思いますか? - livedoor Blog(ブログ) このブログ記事は、今から8年前に「ちょっと!ソフト」パソコン操作に投稿したブログです。この頃、ケイタイからスマホに世の中が変化してきた時代で、将来、PCがスマホに入れ替わるのだろうと予想していました。ちょうど、SNSのFaceBookやTwitterが出始めた時代ですね。 その当時のスマホは、「おサイフ」「ワンセグ」「赤外線」機能が入っていて、

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    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2019/05/04
    一般的にスマホがまだ普及していない時代には、便利だったのですけれど。便利さでは、LINEなどのSNSには負けますね。
  • 森の宮遺跡の展示会場にて : 古代史を探索するメンバーブログ

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    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2019/04/30
    森の宮遺跡の展示会場にて 桜満開のころに、大阪の森の宮遺跡展示場に行ってきました。なぜ、大阪に縄文人が集まってきたのだろう。
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