阪急ブレーブスの小林公平オーナー 阪急電鉄創業者の小林一三は存命中、「どんなことがあっても、宝塚歌劇とブレーブスは手放すな」と言っていたとされる。明文化されていたわけではないが、これが社訓のひとつとなっていた。1970年代、宝塚歌劇は低迷していたが、『ベルサイユのばら』の大ヒットで蘇った。だがブレーブスは何度優勝しても西宮球場の観客席は埋まらなかった。優勝から遠ざかっている阪神の甲子園球場が満員なのと正反対だった。 阪急ブレーブスでエースとして活躍した山田久志投手 ©文藝春秋 1988年当時のブレーブスのオーナー・小林公平(1928~2010)は、小林一三の三男で阪急電鉄社長をしていた米三の入婿にあたる。米三には子がなく、兄の松岡辰郎の長女(姪に当たる)喜美を養女としており、公平は喜美と結婚し、小林米三家の養子となったのである。公平は慶應義塾大学経済学部卒業後、三菱銀行(現・三菱UFJ銀行
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