1959年、堺市立旭中学校卒業後、木村と岡田は少年漫才師として、揃って松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社。漫才作家・秋田實の門下に入り、芸能界のしきたりや漫才台本の書き方を厳しく教わりながら、秋田の弟子・藤井康民によって[3]「堺伸スケ・正スケ」と命名される。木村は「漫才の世界で“伸びたい”」との思いを込め「堺伸スケ」となった。同年5月11日に角座でデビューし、当時のマスコミも「天才少年漫才師誕生!」と書き立てた。ネタは学校の話題を振っていたためあまりウケず、やすしは後に著書『やすしの人生一直線』において、「子供の発想で、子供の言葉になってしまう」「先輩の芸をマネようとするが、大人の会話にならん」と述懐している。 堺伸スケ・正スケは角座デビュー後、2年経った1961年[3]、相方の正スケの廃業に伴い解散。見兼ねた横山ノックから、「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、また、や