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sfと思想に関するfuronu114のブックマーク (2)

  • 文学「まだだ、まだ終わらんよ」 - 誰が得するんだよこの書評

    グレッグ・イーガン「ディアスポラ」のエントリを書き上げた後は素朴にもこう思ったものです。文学終わったな、と。たとえどんなに素晴らしい小説も、人生を変えるような思想も、しょせんは価値基準のメタ構造の階層を一歩昇るだけです。《真理》という名のニンジンを鼻先にくくりつけられた馬のように、がむしゃらに前へ前へと進んでいるだけです。それも、同じところをぐるぐる回っていることに気づかないほど盲目的に。しかしこの考え方は間違っています。 その理由は簡単です。人間はヤチマほど自由ではないのです。環境(観境)を自由にコントロールする力もなければ、不死の生命でもありません。ソフトウェア化した意識ならば、自分の価値観を自由に調節できますが、肉体人には不可能です。人間であることには、さまざまな限界がついてまわります。 私たち人間は、どんなに価値基準の相対化をはかり、メタ構造をクリアに把握しようとも、銃声一発でその

    文学「まだだ、まだ終わらんよ」 - 誰が得するんだよこの書評
  • ディアスポラ / グレッグ・イーガン - 誰が得するんだよこの書評

    文学というメタゲームへの最終兵器にして史上最も難解なSF。あるいは「火の鳥 ハードSF篇」。グレッグ・イーガンは多分この作品で文学を終わらそうとしている。「批評の終着点はどこか」では批評のメタ構造ゆえに、究極の文学・究極の批評などありえないことを論じました。しかしもし、究極の文学がありえるとしたら、それは批評のメタ構造そのものを捉え批評するような、批評というゲームをクソゲーだと気づかせてしまうようなそんな作品になるはずです。それが「ディアスポラ」です。 ストーリーはクラーク「幼年期の終わり」や小松左京「果てしきなき流れの果に」のテーマである「人間の存在は宇宙でどのような意味を持つのか」という王道を突っ走るもの。しかも既存のどんなSFよりも深く難解に。エンタメとしては限りなく終わっていますが、SFとしてはひとつの到達点を見たと評価します。舞台は30世紀で人類のほとんどは肉体を捨て、人格や記憶

    ディアスポラ / グレッグ・イーガン - 誰が得するんだよこの書評
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