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ブックマーク / m.job-list.net (2)

  • 日雇いアルバイトでイラクへ行った。そこで見た地獄

    私たちを乗せた飛行機はパキスタンのカラチ空港で給油し、二十時間ほどのフライトでバグダッド空港に着いた。 タラップを降りたとたん、私は激しい息苦しさを覚えた。 私がアルバイトでイラクの建設現場に行くことになったのは、1980年の七月半ばのことだった。サダム・フセインが大統領になった翌年である。当時、大学を中退した私は、金がなくなると高田馬場の職安前の公園内にできる寄せ場に行き、日雇い労働でいつなぐ生活をしていた。 そんなある時、顔馴染みの手配師が、「にいちゃん、外国の現場があるんだけど、行かねかぇかい?金はいいよ」と誘ってきた。聞くと、契約期間は七月末から三か月。旅費は勿論、衣住付きで三百万円を支払う。仕事は日の大手建設会社が建てているビルに資材を運び入れる外国人労働者の監督をするのが仕事だという。 「こんなにうまい話があるのかな……」と多少疑心暗鬼にはなったが、「前金として百万円払う

    日雇いアルバイトでイラクへ行った。そこで見た地獄
    gimonfu_usr
    gimonfu_usr 2020/07/31
    "サダム・フセインが一年前に大統領に就いた時、日本政府が石油の供給をつづけてもらうための、いわば貢物" 癒着とかいうが他に石油供給確保の方法あったのかな。40年前太陽光発電の黎明期、今では原発も反対やろ。
  • 「泣くなら家帰りなよ!」〜高校を休学していた私がフレンチレストランで働いた8ヶ月間〜

    私は高校を休学していた。 理由はクラスのイジメだった。女子たちの間での無視や仲間外れといった話はよく聞くし、私自身も実際に無視されている女の子を見たことがある。でも時間が経てばその女子たちは元通りの関係になって、新たなターゲットとなった女の子が無視され始めるようになる。私はそんな女子たちが繰り広げる終わらない人間関係に疲れていた。そして自分がそのターゲットになった時にはもうそれが耐えられなくなってしまっていた。 両親は休学に理解を示してくれ温かく見守ってくれた。だが、平日の昼間から自宅にこもっていると親への罪悪感や不安に襲われるようになり、休学している期間だけという約束で祖父母の家に身を寄せることになった。しかし祖父母の家でもそれは変わらなかった。 日々の生活がなんだかとても息苦しくて、苦痛で仕方なかった。学校生活からも社会からも切り離され、疎外感を感じていた。 そんな屈した思いを抱えな

    「泣くなら家帰りなよ!」〜高校を休学していた私がフレンチレストランで働いた8ヶ月間〜
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