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メディアに関するgitanezのブックマーク (7)

  • マーケット・インサイト|株式会社コプロシステム

    「買いたくなる商品づくり」「買いたくなる仕組みづくり」をキーワードに、マーケティングやプロモーションに関する新しい手法や情報、商品や市場についてのコプロシステムの視点などをご紹介するブログです。

    マーケット・インサイト|株式会社コプロシステム
  • 「個人」という古い発明品: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 今日は「個人」とは発明品だ、という話をしましょう。 早速ですが、個人主義が発明されたのではなく、個人そのものが発明されたと僕は認識しています。 すでに「新しいことばのデザインパターンの追求」で〈「所有」や「個人」という概念の変化〉という話題を取り上げ、印刷された聖書を得たピューリタンたちは儀式空間である教会をナンセンスと捉えたという例をあげながら、共同体の一心同体の中世的人間から独立した個人という意識をもった近代的人間への変化について紹介しました。 また、それに関連する事柄としては、以前の「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」というエントリーでも、印刷による書籍の個人的な所有を期に、それを個人的に読むための空間としての個室の誕生、音読(聴覚で読むこと)から黙読(視覚で読む

  • IT型情報社会が知っておかなければならないこと: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 前々回の「新しいことばのデザインパターンの追求」までのいくつかのエントリーでマーシャル・マクルーハンのメディア論を取り上げてきています。 『メディアの法則』から『メディア論―人間の拡張の諸相』を経て、『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』を読みはじめているのですが、読めば読むほど、僕たち日人って、西洋が「情報」というものにどうやって取り組んできた結果、近代から現在に連なる社会を築き上げてきたのかということを、当に表面的にしか理解してこなかったのだなということを痛感します。 近代というのは、人工的な連続性の地平の上に知をアーカイブし編集可能にすることで、富の生産力を向上してきたわけで、それ自体が必然的に伝統を重んじる姿勢を強く内包することになるはずですが、どうも僕ら日

  • バットを持ったまま、守備にはつかないでしょ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 バットを持ったからといって、ヒットやホームランが打てるわけではありません。当たり前の話ですね。 でも、それがバットのような物理的な道具ではなく、手法や考え方みたいなものが相手だと、途端に、この当り前がわからなくなる人がいます。 バットの振り方がわかっても、相変わらずヒットやホームランが打てないことは理解できるのに、手法の使い方を知るだけでは結果が出ないということがわからない。 いやいや、それ以前に、バットが野球に密接に結びついた道具で、ほとんどそれ以外の用途がないことが理解でき、かつバットをつかうには野球のことも知らないといけないことはわかるのに、ある手法を知る際にそれが使われる場について理解することが大事であることがわからなかったりします。 こう書くと、おかしさはわかって

  • すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである。: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである。 これはマーシャル・マクルーハンのメディア論の根幹をなす考えです。 マクルーハンがいうメディアは、いわゆるや新聞、テレビやインターネットなどを指すだけでなく、言葉や数、道路や車輪、家や衣服を含めたすべての人工物を含みます。つまり、すべての人工物は人間の機能および感覚を拡張するとマクルーハンは考えているのです。 ここで着目すべきは、メディアが人間の機能および感覚の拡張であるとすれば、新たなメディアを使いはじめることで人間そのものが変化するということでしょう。 ずっと前に、このブログで「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか」と書きましたし、その考えを中心として、僕は『ひらめきを計画的に

  • ソフトウェア化するプロダクト: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、会社のほうのブログやコラムでは書いていることですが、いまの傾向として、これまで物理的なハードウェアとして提供されてきたものが、ディスプレイのなかのソフトウェアに変換されることが増えてくると考えられます。 カメラや音楽プレイヤー、テレビなどはすでにそうなっています。カーナビもハードウェアの形態から、ソフトウェアに移行しつつあります。そうした機器類以外にも、電子書籍や電子カタログなどもそう。無印良品のノートなどもそうですね。 ようするに、元々が情報をコンテンツとして扱っていたハードウェアがソフトウェア化されて、iPhoneiPadなどのプラットフォーム型の端末に統合されているわけです。音楽という情報コンテンツを扱う音楽プレイヤーが丸ごと情報化してソフトウェアになる。テレ

  • アーカイブされるものと流れて消えるもの: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、TwitterのTLを眺めていて不思議に思うことがある。 Twitter上で語られる言葉というのは「書かれた言葉」というより「話された言葉」みたいだと感じるのだ。 内容がそうだというのではない。たわいのないおしゃべりのような内容だから「話された言葉」のように感じるのではない。 TL上を言葉が流れすぎていく、その様が「話された言葉」のように感じさせるのだ。 それと同時に、文字というのは目の前に残り続けるものだという当たり前のことにあらためて驚かされたりする。そこにある言葉。ずっと、そこにあるなんて、という驚きだ。 日常生活での会話のように、Twitter上の言葉は蓄積されることなく、僕の目の前を通り過ぎていく。文字という視覚的な表現を用いた言葉であるのに、それは音声とい

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