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情報化社会に関するgitanezのブックマーク (6)

  • テキスト情報過多の時代に人は何を感じるか: DESIGN IT! w/LOVE

    いまの時代って、もしかたら単純に情報過多というよりもテキスト情報過多といったほうがいいのではないのかなんて思います。 言い方を変えると文字情報過多。さらに言い方を変えると、一人の人間が摂取する情報全体の割合のなかで占める文字情報の比率がもしかしたら高くなっているんではないかと思います。 「方法依存症」というエントリーでは、方法論の情報収集ばかりを行う割には、自分でその方法を試してみてそこからのフィードバック情報を自分で活かすことが少ない人を方法依存症という風に仮に呼んでみました。 ただ、それは方法論の話に限らず、もっと一般的な話としてみた場合でも、テキスト化された情報の収集には熱心な割に、自分で何かを実際に体験してみて得られる生の情報を役立てるということが相対的に少なくなっているのではないかと思うんです。 純化された情報自分で体験してみて直接情報を得るよりも、誰かがテキスト化した情報を間接

  • 自分が見たこと・聞いたことをちゃんと言葉にできるようになるために: DESIGN IT! w/LOVE

    言語は人間心理を起動させるソフトウェア。そのソフトウェアが弱ってしまっているんですね。 見聞を言葉にすることがへたくそになっている松岡正剛さんも千夜千冊でこのデリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』を紹介する文章のなかで、 「見聞」という言葉が示しているように、われわれはいつも見たり聞いたりしている。しかし、実はそれ以上にしょっちゅう触ったり、味わったり、嗅いだりもしている。 ただ、そのことを言葉にすることがすっかりへたくそになっている。そして、いやあ、言葉にならないことって、いっぱいあるんだよというふうに嘯(うそぶ)くのだ。が、これは大まちがいだ。 と書いています。 下手くそになったのは僕らの言葉にする技術が落ちたこともありますが、言葉そのものの弱体化という原因もあるはずです。 その言葉の弱体化は何を原因としてはじまったのか。 田中優子さんが『江戸の想像力』で書いて

  • 自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・後篇: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 日々大量に生み出される情報を個々人が自分で判断して取捨選択をしていくなんてことは当に可能なのだろうか? 可能だとすれば、なぜ最近繰り返し起こっている、誰かが何か間違いを起こせばよってたかってボッコボコに叩きのめすような社会的潔癖症、免疫不全のような風潮がはびこってしまうのか? そうした問題を考えていくために、前回の「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇」では、境界、境目というものに着目して、中世から近世にかけての日文化における河原という境目の意味、そこに集まる芸能の民の話や江戸期に入ってからの芝居小屋や遊郭が囲い込まれた悪所の話をしました。 善と悪の共存善と悪とを分けること自体は昔からとうぜんあったことで、今にはじまったことではない。でも、かつての日

  • 自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 マーシャル・マクルーハンの後継者ともいわれるデリック・ドゥ・ケルコフは、『ポストメディア論―結合知に向けて』のなかで、「テレビの心理効果のなかでもっとも知られていないのは、それが個人の情報処理の文脈とプログラムの両方を外部化させてきたこと」だと述べています。 また、 テレビは、刺激とそれに反応するまでの間合を排除することによって、私たちから意識的に情報処理をする時間を奪ってしまうのである。 といい、や新聞などのテキストを読む場合のような情報のスキャニングのコントロール権を人間の側がもっておらず、あくまで画面に外部化されたスキャニング済みの映像を網膜に照射されているのだとしています。情報処理されることなく、直接網膜に、そして、身体に植えつけられるというわけです。そこに心的な

  • 手入れの思想: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 養老孟司さんは『人間科学』のなかで、西洋や中国などの都市のように城郭という明瞭な境界をもたずに、自然から人工につながる都市をもつ日社会においてその境界に位置する「田んぼ里山」に注目しています。 そして、自然と人工の入り混じった中間形態としての「田んぼ里山」を成立させた思考こそが日の思想であろうといって、それを「手入れの思想」と呼んでいます。 手入れとは、自然のものに「手を入れて」、できる限り自分の都合のよいほうに導こうとする作業である。そのためには、明瞭な前提が必要である。 それにはまず対象である自然の存在と自律性を認め、それを許容しなければならない。「仕方がない」とは、自然の負の面を認めざるをえないときにいわれることは明らかであろう。 『人間科学』というで、養老孟司

  • インターネットでやっぱり広告は変わったのよ。

    トップ > ネットマーケティング > インターネットでやっぱり広告は変わったのよ。 いしたにまさきの新刊:HONDA、もうひとつのテクノロジー ~インターナビ×ビッグデータ×IoT×震災~ 01 それはメッカコンパスから始まった|Honda、もうひとつのテクノロジー 02 ~インターナビ×GPS×ラウンドアバウト~ 運転する人をサポートすること|Honda、もうひとつのテクノロジー 03 ~インターナビ×災害情報×グッドデザイン大賞~ 通行実績情報マップがライフラインになった日 2006.06.07 というか、元に戻ったっていう話なんですけどね。 で! 少し前の話になってしまうのですが、ネットイヤーとインプレスR&D主催のセミナーに参加させてもらいました。 第1回 インターネットマーケティング最新動向&技術セミナー 2006 セミナー - セミナー・ナレッジ | ネットイヤーグループ. W

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