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情報学とblogに関するgitanezのブックマーク (3)

  • 記録と記憶:あるいはブログを書き続けるということ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 Web・logであるブログと、語られるものとしての記憶。 書かれることで、それは外部からも語ることが可能なものとなり、伝承が可能になるのかもしれません。 そして、書かれた元の文章(ブログ)が消えてなくなっても、外部の記憶が再び記録(log)されれば、それはまた別の誰かが語ることが可能なものとなります。 かつては必要だと思いブクマした記事も、それを主張した「ブロガー」自体が消滅する事によって、その価値を失って行く。それが感情論であるならば尚更。どこの馬の骨とも解らぬ、実名も明かさぬ・顔写真も見せぬ不確かな存在だからこそ、このネット上から消えてしまえば、それで「終わり」。だから常に、その主張を生み出したブロガーとして、このネット上に存在し続ける事が大切です。 実際には、ここで話

  • <と>: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ここ数回の企業のWebコミュニケーションに関するエントリーを書いていて、以前、会社のほうのブログで、こんな図を描いたのを思い出しました。 ※「Web2.0の議論で欠けているもの(前編) | 実践!Webマーケティング:Blog」より転載(執筆は私自身) さて、エントリーでは、この図を思い出しのをきっかけに、企業のコミュニケーションということで思いつくものを、まとまらないまま、書いてみたいと思います。 3つのコミュニケーション一言にコミュニケーションといって、以下の3つがあると思っています。 企業と外部のインターネットユーザーの間のコミュニケーションインターネットユーザー相互のコミュニケーション企業内コミュニケーション マーケティングにおいて、外部に対する通常のマーケティン

  • 神社にとって本質的な要素は社殿ではなく鎮守の杜: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 やっぱりね。そうだと思った。 西垣通さんの『情報学的転回―IT社会のゆくえ』を読んだのをきっかけに、東洋思想について勉強しようと思い、読み始めたのが鎌田東二さんの『神道とは何か―自然の霊性を感じて生きる』。 その中に僕の予想していたとおりの答えを見つけました。 その地域一帯を守り育む大地の生成力やエネルギーをため込み、円滑に流し循環させていくためのセンターでありツボが神社なのである。したがって神社において最も重要なのは、社殿などの建造物ではなく、その杜あるいは泉や木や岩を持つ場所そのものということになる。そこで、鎮守の杜の「杜」のほうが神社にとってより質的な要素となる。 伊勢神宮や熱田神宮を訪れて感じたのは、その杜の生命力の凄さでした。 特に伊勢神宮の杜の自然の生命力は圧

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