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日本文化とliteracyに関するgitanezのブックマーク (2)

  • 自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・後篇: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 日々大量に生み出される情報を個々人が自分で判断して取捨選択をしていくなんてことは当に可能なのだろうか? 可能だとすれば、なぜ最近繰り返し起こっている、誰かが何か間違いを起こせばよってたかってボッコボコに叩きのめすような社会的潔癖症、免疫不全のような風潮がはびこってしまうのか? そうした問題を考えていくために、前回の「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇」では、境界、境目というものに着目して、中世から近世にかけての日文化における河原という境目の意味、そこに集まる芸能の民の話や江戸期に入ってからの芝居小屋や遊郭が囲い込まれた悪所の話をしました。 善と悪の共存善と悪とを分けること自体は昔からとうぜんあったことで、今にはじまったことではない。でも、かつての日

  • 複数の「古代」/神野志隆光: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 712年に成立した『古事記』と、720年に成立した『日書紀』。ほぼ同じ時期に成立し、内容も神武天皇以下歴代の天皇について述べ、おなじような話を扱う部分が多い2つの「古代」を扱う書物。この2つの書物を前に、著者は「『古事記』と『日書紀』はひとつの歴史を語るものとして見るべきであろうか」と疑問を投げかけます。 この問いに、著者が提示している答えは、NO。 著者は『古事記』と『日書紀』という2つの書物は、それぞれ異なる「古代」を記述したものだという考えを、『古事記』や『日書紀』に関する知識がそれほどない僕が読んでも理解できるよう、わかりやすく提示してくれています。 『古事記』と『日書紀』まず、年始の「「間」のデザイン」というエントリーでも書いたように、日は古来、文字を

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