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artに関するgitanezのブックマーク (83)

  • ドラクロワとユゴーと|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    1814年のナポレオン没落後、フランスは王政復古の時代に入る。 24年までをルイ18世が、30年までをシャルル10世が王位に就いた。 この復活したブルボン王朝は、まるでフランス革命など、なかったかのように、貴族や聖職者を優遇し、市民は不満を募らせた。 シャルル10世は国内の不満をそらすため、1830年にアルジェリアへの侵略を開始。それでも不満はおさまることなく、シャルル10世は自由主義者の多かった議会を解散し、選挙権を縮小する勅令を発した。 これにより市民の不満は爆発。立憲君主制のオルレアン朝を擁する7月王朝へとつながる7月革命を引き起こすことになる。 横たわる屍体ウジェーヌ・ドラクロワがあの有名な『民衆を導く自由の女神』を描いたのは、そんなときである。 このGWにパリのドラクロワ美術館で、この下絵を観た。色数も少なく、ラフなタッチで描かれているが、僕がドラクロワの作品が好きな理由でもある

    ドラクロワとユゴーと|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
    gitanez
    gitanez 2019/05/30
  • 神を迎え神送る道行の向こうには人新世が……|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    の家屋には、ハレの出入り口とケの出入り口があるという。 ハレの出入り口のほうは庭から入って縁側を通って座敷に入るそうだ。 門のそばの庭木戸から池などをめぐりながら庭をあるき、脱石から縁をとおって座敷にはいるのが正式の玄関だった。 と『日人と庭』で上田篤さんが書いている。 縁側に脱石があるところ、それがハレの出入り口。 しかし、それは……、 いいかえるとそれは神迎えをし、また神送りをする道行である。あるいはその家の祖霊がやってきて、去る道でもあった。そういう庭の意味をしめすように、これらの庭の片隅には灯籠と蹲がおかれた。神や祖霊をむかえるときに身を清めるためである。 そうして、神か祖霊かのように、ハレの出入り口から迎えられる先で、TSUKUBA SCIENCE ART EXHIBITIONは行われていた。 肉体に閉じこめられた精神という区別は、もはや見事なまでに溶解して「啓蒙時代、

    神を迎え神送る道行の向こうには人新世が……|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
    gitanez
    gitanez 2019/05/15
  • パリとローマのエジプトかぶれ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    今回、ローマとパリを旅行する前に、バルトルシャイティスの『イシス探求』を読んでいた。 きっかけはヤン・アスマンの『エジプト人モーセ』を読んだことだ。ヨーロッパとエジプトのつながりに興味を持ったので、エジプトの女神イシスを題材にしたバルトルシャイティスのを手にとったのだった。これが旅行直前の心理状況において、殊の外、興味をそそる内容だった。 こんなことが書かれていた。 「パリは河の中に作られた都市であり船をシンボルとしている。この船とはイシスの象徴である」と。セーヌ川の中州であるシテ島がパリのはじまりであることくらいは知っていた。しかし、このイシスの「船はバリス Baris と呼ばれた。この発音がガリアの訛りのせいでパリ Paris となった」というのを知ると俄然興味が出てきた。 イシスの船という名の街パリ。 そして、たくさんのオベリスクが建つ街ローマ。 この2つの街をまわる際の裏テーマと

    パリとローマのエジプトかぶれ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 感染するイメージ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    パリで美術館をはしごして過ごしている。 この2日間で、ルーヴル美術館、オルセー美術館、リュクサンブール美術館、ドラクロワ美術館、ピカソ美術館を回った。あと残りの2日間もいくつかの美術館を訪れるだろう。その前のローマも含めれば、このGW中、かなりの数の美術館を回ったことになっているはずだ。 こうやって短期間でたくさんの作品を観てまわっているからこそ、気付くこともある。それは西洋美術史の流れの中では先行する芸術家の作品をベースに自分の作品をつくる芸術家がそれなりに多いということだ。 例えば、ドラクロワの作品を模写したものも今回多く観た。 ルーブル美術館にあり、今回も観たドラクロワ作品の中でも大好きな、この《アルジェの女たち》。 この作品に関しても、《ドラクロワ礼賛》というドラクロワの肖像画を彼を信奉した若い画家たちが取り囲む集団肖像画も描いたことで知られる(今回オルセーで実物を観た)、アンリ・

    感染するイメージ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 自分の外で考える(あるいは東山魁夷展)|Hiroki Tanahashi|note

    "カントにはいささか申し訳ないが、ぼくらは自分自身の思考の外で思考しなければならない" -スティーブン・シャヴィロ『モノたちの宇宙 思弁的実在論とは』より 社会のためになることをする。 Social Goodな考えがデフォルトになるにつれ、表面化してきた問題の1つとして、「何をGoodと考えるか」には人それぞれ大きな違いがあり、その違いがそれぞれ良いことをなそうとする者同士の間でGoodとは程遠い衝突、諍いの火種となるということが挙げられる。良いことをなそうとする者同士の間で、良いことの基準が異なるとき、互いが相手のほうの良さも認める寛容性を欠けば、良いことをするつもりがそれを始める前に、良くない争いのほうを始めてしまうことになる。この違いが可視化されやすく、しかも、違う考えをもつ者同士が容易に出会いやすいのも現代の社会の特徴なのだろう。 ここに、国や地域を越えた文化や宗教の違いが加わると

    自分の外で考える(あるいは東山魁夷展)|Hiroki Tanahashi|note
  • マルセル・デュシャンと日本美術/東京国立博物館|Hiroki Tanahashi|note

    フリードリヒ・キットラーは『ドラキュラの遺言』の中で「今日われわれの誰もが承知していながら、決して口にだしては言わないことがある」と前置きした後、口に出すのではなく文字にすることで、こんな指摘をしている。 書くのはもはや人間ではないという事態がそれである。 キットラーの念頭にあるのは、コンピュータによる書字行為である。1993年出版ののなかでの25年前、四半世紀前の指摘だ。 コンピュータがなければ脱構築もありえなかったと、デリダはズィーゲンの講演会で語った。文字やテキストはコンピュータのトランジスター・セルのなかにだけあって、もはや時間的にも空間的にも知覚できないものになってしまっている。この30年の間にシリコン・ヴァレーでは、トランジスター・セルを1ミクロン以下のサイズに縮小してきた。偉業である。その結果、われわれの日常的なな書く行為も、フラクタル幾何学の概念でしか語ることができなくな

    マルセル・デュシャンと日本美術/東京国立博物館|Hiroki Tanahashi|note
  • ドラクロワの屍体|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    ドラクロワが好きだ。 あの何とも猥雑な熱気に満ちた匂いをプンプンと漂わせる作品に惹かれる。 昨日、紹介したパウル・クレーのことが頭で好きだとすれば、ドラクロワは生理的に好きだと言える。 そんなドラクロワの企画展がパリのルーヴル美術館で開催されていたので観た。 ドラクロワの作品をこれだけ集中して観たのははじめての体験だ。 結論から言えば、最高に面白かった。 ドラクロワを一言で言えば屍体愛好家ではないかと思う。 例えば、有名な「民衆を導く自由の女神」だって、そうだ。 タイトルどおりに民衆を導く自由の女神の足元には、屍体が転がっている。 画家が描きたいのは、女神よりも屍体の方ではないかとさえ感じる。 マリオ・プラーツは、『肉体と死と悪魔—ロマンティック・アゴニー』で、次のように書いている。 『キオス島の虐殺』の迫害を受ける病める女たち、馬に裸のまま繋がれた美しい囚われの女。 ここで言及される「キ

    ドラクロワの屍体|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 眼にみえるものを再現するのでなく、みえるようにする|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    GWをドイツで過ごしている(いや、すでに「いた」か)。 旅先ではその土地の美術館を訪れるのが、僕の旅の楽しみ方のひとつ。 滞在先のひとつミュンヘンでは、3つの美術館をはしごした。収蔵品の時代別に、アルテ・ピナコテーク、ノイエ・ピナコテーク、ピナコテーク・デア・モデルネと分かれている。パリで言えば、ルーヴル、オルセー、ポンピドゥのようなものだ。 3つの美術館を1日で見て回ったので、かなり足早に回っても半日以上を費やした。 そのうちの1つ、ピナコテーク・デア・モデルネで運良くパウル・クレーの回顧展が行われていた。 2年前にも、ポンピドゥでクレーの企画展を見たので、海外ばかりで2度もクレーを見たことになる。前回とは展示された作品も違うし、編集のされ方も異なるので、新鮮な気持ちでみることができた。今回はその感想と見終わったあとのこ考えたことを書いてみたい。 今回、3つの美術館をはしごする中で、クレ

    眼にみえるものを再現するのでなく、みえるようにする|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 境界でなく、動的な連関として|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    超音速気流の研究で知られる物理学者のエルンスト・マッハは1886年の『感覚の分析』という著書で、こんな自画像を提示している。 なるほど、自分で自分を見て描いたら、こうなるだろうと思う一方、鼻はなんとか見えるが、目の上のまつ毛らしきものは見えるんだろうか? 日人とヨーロッパ人の彫りの深さの問題? とか思ったりする。 実際、鼻と身体の距離の関係上、両方が同時にこんなに明確に見えることはないだろう。 外界と自分、身体と心の曖昧な境界『パウル・クレー 造形の宇宙』で、著者の前田富士男さんは、このマッハの自画像に関連して、クレーが『日記』という作品で1905年の7月に書いた、こんな一文を紹介している。 ふざけた課題をだしてみよう。自分自身を描いてみたまえ。ただし、鏡を使わないこと、また鏡のような方式で推論もしないこと。君が自分自身をみるとおりに正確に、である。となると、君自身に見えない頭は無しにし

    境界でなく、動的な連関として|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 自然対人工の単純でない構図|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    自然と人間。ジョルジュ・バタイユが人間を自然を否定する動物だと言っていることは昨日書いた。 そして、いわゆる祝祭が、動物であることを否定した人間が、動物であったことを確認するかのような機能を持っていたことを紹介した。 ロザリー・L・コリーは『シェイクスピアの生ける芸術』で、シェイクスピアが書いた牧歌形式の演劇をいくつか紹介しているが、この牧歌型の劇の形式こそ、祝祭による自然、動物への一時的回帰を思わせる劇の型を持っているという点で、それ以降、祝祭というものが社会からすこしずつ排除されていくことになる最後の時代を生きたシェイクスピアが繰り返しその形式を使ったことは大きな意味を持っているように思う。 コリーはシェイクスピアの牧歌型の劇のひとつ、『お気に召すまま』を通じて、標準的な牧歌形式がどのような型を持つかを次のように紹介している。 このロマンティック・コメディの大枠の構造は、まさに標準的な

    自然対人工の単純でない構図|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • ルドン--秘密の花園|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    現代の状況を表すキーワードのひとつとしてVUCAがある。 Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧さ)の頭文字をとったワードだ。 僕は、この4つのキーワードから現代の社会環境以上に、自然だとか生物のことを思い浮かべてしまう。 僕らはいま、そういう社会環境になったことに慌てふためいている考えあるが、自然とか生物にとってはVUCAな状態がむしろデフォルトなのだろうと思ってみたりする。もちろん、それで僕自身がVUCAな環境を落ち着いてみていられるようになるということではないが。 VUCAなルドンところで、VUCAというキーワードは、今日「ルドン--秘密の花園」という展覧会で観てきた、オディロン・ルドンの絵にもぴったりだ。 《人物(黄色い花)》と名付けられた1900-1901年に制作された壁画作品には、人物の左手に

    ルドン--秘密の花園|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
    gitanez
    gitanez 2018/02/13
  • 形象と存在の曖昧な輪郭|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    ダリオ・ガンボーニの『潜在的イメージ』が面白い。 ガンボーニはこので曖昧で不定形なイメージのもつ、創造的な性質について論じている。ガンボーニが「潜在的」と呼ぶイメージのもつ曖昧で多義的な性質は、ひとつの概念に囚われない複数の可能性を見る人に与える。 それはアルチンボルドが描く、植物や動物の集合にも見えるし、人物像にも見えるダブルイメージがあらかじめ設計された絵と違う。雲やダ・ヴィンチのいう壁のしみがいろんな像を想像させるのと同じ、不定形であるがゆえに、さまざまな想像を駆り立てるイメージを指してのことだ。 何が岩場を擬人化させるのか?例えば、ギュスターヴ・クールベが描く下の絵のような風景は、レアリスムを標榜しながらも、その暗い岩間からは、いくつもの人物像が浮かびあがるものであることを、ガンボーニは指摘する。それは画家の意図なのか、観る側の想像力によるものか。 人間にとって意味を成す形象の類

    形象と存在の曖昧な輪郭|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 絵画と演劇の重なりにルネサンスの魔術的性格を読む|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    絵画で描かれた光景が目の前で演じられていたらどうだろう? それは滑稽に見えるのか、それとも……。 ポール・バロルスキーは「ルネサンス期には、絵画と宮廷の祝宴の間には種々密接な繋がりがあった」と『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』のなかで書いている。 そして、こんな例を挙げる。 たとえば、アポロ、ムーサ、そして古今の偉大な詩人が登場するラファエッロの《パルナッソス》は、ヴァティカーノ宮殿の「署名の間」の壁上に描かれているわけだが、その位置がブラマンテによってすでに着工されていたベルヴェデーレ宮殿の中庭の劇場に面した壁上というのは、おそらく偶然ではない。つまりそうであってはじめて人々は、《パルナッソス》が描かれた壁の窓越しに、アポロとムーサたちの霊感を糧とする領域たる劇場を目にすることが可能になったのである。ここで言及されているのは、この絵だ。 宮殿の中庭は劇場として

    絵画と演劇の重なりにルネサンスの魔術的性格を読む|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 科学と詩の結託(悪魔との契約としてのゲーテのアンチ・ディシプリナリーな思考姿勢): DESIGN IT! w/LOVE

    ゲーテの『ファウスト』を読み始めた。 来年前半はゲーテについて、あらためてちゃんと知っていこうと思っているので、その第一歩。 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに興味を持っているのは、彼が、詩人、劇作家、小説家という文学の人という側面をもつ一方、色彩論、形態学、生物学、地質学といった広範囲にわたる自然科学者としての側面をもっているからだ(もうひとつ政治家という面もあるが、そこは問わない)。 そして、その両側面にまたがる功績を残したゲーテであるがゆえに、例えば、彼の色彩論研究からは、生理学とという自然科学の分野と、印象派という美術の分野での2つの新しい思索のカテゴリーが生まれている。 ゲーテとショーペンハウアーとが主張した、観察者に新たなる知覚の自律性を与える主観的視覚は、観察者を新しい知や新たなる権力の諸技術の主題=主体にすることと軌を一にしてもいた。19世紀において、これら二つの相互

  • 見る目、聞く耳/アルチンボルド展を観て: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ウリッセ・アルドロヴァンディという16世紀のイタリア・ボローニャで生まれ育った有名な博物学者がいる。1522年に生まれ、1605年に没している。 アルドロヴァンディが有名なのは、自身がイタリア各地で採集した植物を中心として、めずらしい動物や鉱物の膨大な数の標を集めたミュージアムを開設し、そこに国内外から多くの博物学者が訪問したからだ。 アルドロヴァンディはミュージアムに彼自身が学問的に価値があると捉えた様々な品を集めただけでなく、自らの蒐集品を元に動植物誌の編纂を試みた。そのため、多くの画家に収蔵品を素描させているのだが、その中にはドラゴンや人面鳥などが当たり前のように混ざっている。 これは現代から見れば非科学的で、とても学問的には思えないのだけれど、それがおかしく思える

  • メタモルフォーゼする僕ら: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 定形をデフォルトとみるか、はたまた変形のほうを常ととらえるか。 後者だとしたら、その変形は変形するものの自律的な要因ととらえるか、よりインタラクティブな他者との関係性によるものと考えるか。 そんな観点に立ってみた場合、いま読んでいるオウィディウスの『変身物語』はなかなか面白い。 起源8年に全15巻が完成したというのだから、2000年以上に書かれたものだが、僕ら自身を含む生物というものを考える際にこれが思いの外、興味深く感じられている。 エリザベス・シューエルは『オルフェウスの声』のなかで、この物語について「『変身譚』はそれ自体、巨大なポストロジックなのである」と述べている。 ポストロジックとは、前々回の「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」という記事

    メタモルフォーゼする僕ら: DESIGN IT! w/LOVE
  • わかることよりも感じることを: DESIGN IT! w/LOVE

    文脈がわからなければ「わからない」。 『わかったつもり 読解力がつかない当の原因』の著者・西林克彦さんはそう言っている。 言い方を変えれば、「わかる」とは、既知の文脈に、その直前までわかっていなかったことがピタッとあてはまることで起こる心の動きだということができる。 いや、わかっていなかったことじゃなくてもいい。 すでにわかってたことでも、それが今までの理解とは別の文脈にあてはまり、別の意味がそこから見えてきたときも人は「わかった」となるはずである。 西林さんもこんなことを書いている。 文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私たちにはその意味が見えなかっただろうということです。すなわち、私たちには、私たちが気に留め、それを使って積極的に問うたことしか見えないのです。それ以外のことは、「見えていない」とも思わないのです。 既知の事柄でも、それを理解

  • 不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない: DESIGN IT! w/LOVE

    「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」 そう。わかりにくいのは対象そのものに宿る問題ではない。むしろ、対象に向かう側の姿勢の問題である。 わかる力がないことが、何かがわからないという際の根的な問題なのだ。 では、どう、問題なのか? 「理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない」 そう。わかっているものしかわからない。 つまり、わかるということ自体、最初から最後まで対象の問題ではなく、わかる側自身の問題なのだ。 対象についてわからない場合だけでなく、対象についてよくわかっている場合でも、わかるということはわかる側のものなのだ。 「だから」と、『サイスの弟子たち』という未完の小説のなかの一連のセリフの最後をノヴァーリスは締めにかかる。 「それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」と。 発見のなさとは自分自身の殻にとじこもり、知的冒険に赴こうとしない、不可解

  • 肉体的で演劇的!面白まじめのスタンス考(2つのパルナッソスより): DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ルーヴル美術館ドゥノン翼の2階、俗にイタリア回廊と呼ばれるギャラリーには、長いまっすぐな廊下の両側にルネサンス期以降のイタリア絵画の名作がずらりと並んでいる。アンドレア・マンテーニャなどの初期ルネサンスの作品をはじめ、レオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリ、ラファエロ・サンティなどの盛期ルネサンスの画家の作品、そして、マニエリスム期に入ってのポントルモなど、どれもこれも日の美術館での企画展なら主役級の作品ばかりで圧巻だ。 ただ、当然ながら、その時代の絵画は多くの作品が宗教画なので、キリスト教の物語に疎い日人には解説なしだとどう見ていいかわからなくてちょっととっつきにくい部分があるだろう。 そんな中、異彩を放つのが綺想の画家アルチンボルドによる連作「四季」なのだが、それ

    肉体的で演劇的!面白まじめのスタンス考(2つのパルナッソスより): DESIGN IT! w/LOVE
  • アーツアンドサイエンスをふたたび混ぜあわせる: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 前回、リサーチをテーマに書いていてみた。 リサーチだとか研究だとかというと、何かとっつきにくい特別なことのように感じられるかもしれない。 だけど、何かを知りたい、理解したいと思い、そのことについて調べることや、調べてわかったことを元に自分で納得できるような解釈を見つけだすことは、人生において決して特別なことではないはずだ。 自分がわからないと思ったことに立ち向かい、わかるための様々な具体的な行動をすること。 そういうことが来、リサーチという活動の根的な動機としてあるのだろうと感じる。 そんな風に自分の好奇心に従って、自分自身の頭やからだを動かしてみること。 人生において、そういう時間の割合をどのくらい、作ることができるかどうか。そんなことがこれからますます問われてくるん