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asiaに関するgitanezのブックマーク (6)

  • 華厳の思想/鎌田茂雄: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 華厳経の中心仏は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。毘盧遮那はサンスクリット語の「ヴァイローチャナ」の音訳だそうです。訳すと「光明遍照」、無限の光が遍く照らしだす。そんな太陽の輝きのイメージをもっているのがは毘盧遮那仏です。宇宙の真理をすべての人に照らし、悟りに導く仏とされています。ちなみに、真言密教における大日如来は摩訶毘盧遮那仏(マハー・ヴァイローチャナ)で、マハーはスーパー、さらに偉大なという意味。つまり大日如来は超毘盧遮那仏なんですね。 毘盧遮那仏は、もっとイメージしやすいようにいえば東大寺の大仏がそう。あの奈良の鹿たちが住まう奈良公園にある東大寺の大仏。 東大寺は現在も華厳宗の総山です。 大仏建立というナショナル・プロジェクト聖武天皇の発願により造られた東大寺盧舎那仏

  • 東洋文化史/内藤湖南: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 原研哉さんとの対談集『なぜデザインなのか。』のなかで、イタリアで活躍しているデザイナーの阿部雅世さんは、デザインというものを日語に翻訳する際に「生活文化をつくる仕事」というふうに訳してみたらどうかということをいっています。そうしたデザインの仕事をするためには、前提として「質のいい暮らしをするためには、自分自身が、文化に支えられた生活をすることが必要」「自分の生活を支える哲学を豊かにすることがたぶん必要」ともおっしゃっています。 今年1年を振り返ってみると僕にとってこの1年というのは、まさにこの「生活文化をつくる仕事」ということを公私ともに考え実践してきた1年だったという気がします。 「公」というのは『ペルソナ作って、それからどうするの?』の出版や情報デザインフォーラム関連

  • 富と文化: DESIGN IT! w/LOVE

    どうやら、その必要なことを考えずにここまで来てしまったんですね。そして、いまや、その必要さえもとうに忘れられたか。 もっとも富を作るということが文化を作るということにある程度まで必要な手段となるが、その程度を超過すると、時として富の中毒によって文化の停滞もしくは廃頽を来すようになるものである。文化の発達は富のごとく百年、二百年の努力でできるものではない。 文化を使って富を得て、その富の中毒によって文化を廃頽させたか。しかし、その廃頽した文化は百年、二百年の努力ではできない。 個人や法人でも同様だと感じました。富を得るのに比べ、文化に類するものを個人や法人が築きあげるのには時間がかかります。どちらにより時間を割くべきかは利口なものならわかりそうなものなのだけれど。 目先を見るか、将来を見るか。将来を見るなら来を見つめなくてはいけない。 世界の人類を向上せしむべき文化を作るか、それとも富を得

  • 詩経―中国の古代歌謡/白川静: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 人間にとって、ことばとは何なのか? ことばを発するということはどういうことなのか? 何かしらの対象(object)を指示する記号・表象としてだけ、ことばを捉えてしまう現代においては、ことばと人間の関係はすでに壊れてしまっているように感じられます。親の庇護を失った子どもが日々無防備に大量のことばに曝されているような状況か。 現代の成人はことばに対する防御力をもたない、あるいは、ことばに対する惧れを抱かないという意味において幼児的であり、また、その幼児に道を教える親という存在の不在において、まさに現代は未来を喪失しているのではないかと感じます。そして、その未来の喪失は来の消失に起因するのではないかという気もするのです。ことばの来の消失に。 古代歌謡は、民族の歴史が刻まれはじ

  • 日本文化史研究/内藤湖南: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 『日文化史研究』上下巻は、日近代の東洋史学者のなかで最も影響のあるといわれる内藤湖南さんが各地で行った、日文化史に関する講演録を集め収録したです。 内藤湖南さんは名を虎次郎といい、1866年(慶応2年)に現在の秋田(当時は陸奥国)に生まれ、上京して「三河新聞」や雑誌「日人」をはじめ「大阪朝日新聞」「台湾日報」「万朝報」などの編集に携わったのち、1907年(明治40年)に京都帝国大学(現京都大学)の文科大学史学科に招かれ、京都支那学の創設者、京大の学宝とまで呼ばれました。1926年(大正15年)に退官し、読書三昧の毎日を過ごしたあと、1934年(昭和9年)に亡くなっています。 内藤湖南さんとの出会い僕が内藤湖南さんに興味をもったのは、松岡正剛さんが何かの著書で影響を

  • 世界のネット利用者は約7億人、アジア主要国が米国の利用者を超える

    Windows SQL Server 2005サポート終了の4月12日が迫る、報告済み脆弱性の深刻度も高く、早急な移行を

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