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thinkとsenseに関するgitanezのブックマーク (13)

  • 人里離れた世界で感受性を養う: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 他人とのコミュニケーションに悩むくらいなら、いっそのこと、人間関係のことなど忘れて、いったんは誰もいない自分ひとりの世界に向き合ってみるのがよいだろうと思います。 そう思うのは、昨日の「やっぱり感受性が学ぶための基礎なんだろうな」でも書いたとおり、他人とのコミュニケーションに悩んでいる人の多くが、コミュニケーションそのものの能力以前に、人との関係性以前に、非人間的なもの、非生物的なものを含む世界との交感の基礎となる感受性のほうに問題があるだろうからです。 感受性というOSに問題があるのだから、いくらコミュニケーション力という個別のアプリケーションを機能させようとがんばっても自ずと限界が生じてしまいます。 その場合、やはり基に立ち返って、OSである感受性の改善を優先したほう

  • やっぱり感受性が学ぶための基礎なんだろうな: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 物事からなにかを感じとる力。 自分が感じていることを意識のうえでも受け止める力。 客観的な知識ではなく、自分で感じたことを信じる力としての感受性。 この感受性がいろんなことを学んだり勉強したり理解したりする上での基礎となるものなんだろうなと思います。 頭がわるいとかではなく、感受性がよわい「いま勉強中です」とか「いろいろ教えてください」とか口ではいいながら、いつまでたっても成長しない人がときどきいます。たしかにそういう人は勉強していたり、いろんな人に教えてもらったりしていたり努力はしているのですが、なぜかどこか決定的に飲み込みがわるいし、みると勉強の方向性や疑問の持ち方がズレていたりする傾向があります。 程度は極端にダメなのもあれば、ちょっとズレてるなという程度のこともある

  • 「わからない」を自分で引き受ければ他人の目を気にして焦る必要はない。: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 うーん。わからなかったら、わからないでいいじゃんと思うんだけどなー。 すくなくとも焦ってすぐにわかろうとしなくてもいいと思うんですよ。 わかるとかわからないとか所詮は個人の問題だと思っています。 いや、全部がそうじゃなくて、人間社会の仕組みとしての決めごと―たとえば試験の答えだとか、法律で決められてるやっちゃいけないこととか、待ち合わせの場所と時間とか―そういうのは、決まっていることをわかる必要があって、決めたことが1つなら答えは1つです。 でも、そういう決めごとの外にあるもの―たとえば他人の気持ちとか、誰かによって主張された内容とか、自然や日常の出来事をどう解釈するかとか―を、どう見るか、わかるかは所詮は、わかる側の個人的な問題でしかない。たとえ相手に「なんで、私の気持ち

  • どんなに拙い価値観でも、自分自身の価値観を育む努力を怠らないようにする: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 自分で爪弾くギターの音色、自分で作った料理の味、自分で描いた絵の出来ばえ。その音、その味、その色形を、自分自身で評価できなければ、それがうまくできたかどうかは判別できません。 音や味や色形がどうも自分の思った通りのものでなければ修正するし、なぜよくないかを考えてうまくやる方法を考えるのではないでしょうか。 自分の行為の結果としてのフィードバックを受け、人は自分の行為を反省し、その反省を次の行為のために活かすことができる。それはフィードバックを正しく評価する耳、舌、眼があって、はじめて可能になるループです。 言い換えれば、それは自分が何を求めていて、何のために行為を行っているかがわからなければ、自分自身の行為さえ評価ができないということでもあります。 結果の評価ができなければ

  • 情報摂取の場・過程・作法をみなおす: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 すこし前に書いた「テキスト情報過多の時代に人は何を感じるか」というエントリーに、べええさんがトラックバックをくれました。 この変化には、以下の2点が看過できない点だと考えました。 1つ目に、アナログ情報をデジタル化したときに情報落ちが発生します。デジタル化が進めば進むほど、欠落する情報が多くなる事実があると考えています。 2つ目に、情報過多の現代では、アテンションの方に重点が移っており、情報自体の価値がおざなりになっている事実があると考えています。 僕は先のエントリーで「テキスト化された情報に接する比率が増え、まわりの環境も自然物よりも機械化、デジタル化されたものの比率が増えているいまの環境では、そうした自分自身の感覚の変化によって情報が変化したり、また対象物のほうも静止す

  • すべての現象のなかに自己を証かす: DESIGN IT! w/LOVE

    様々な現象のなかで様々なものを感じ取っている自分を現象の只中において知るということなのだろう。 自我によってすべてを認識しようとするのが迷いなのだ、諸々の現象のなかに自我の在りようを認識するのが覚りである。 僕が「直観」と呼んだのは、道元のいう「覚り」に近いものなんだろうと感じます。ただ単に感じたままの感覚を「直観」と呼ぶのではなく、自分も含めてあるがままの現象とその現象を感じとっている過去にも未来にもつながった自分を認識することを僕は「直観」と呼びたい。 自己とはもろもろの事物のなかに在ってはじめてその存在を知るもの『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』のなかで深澤直人さんが、自分も昔は自分の身体の外側、自分をさておいたものを環境と考えていたが、後になって自分も他人もすべてを含む入れ子状態のものを環境と定義するようになったと言っていました。 世阿弥の「離見の見」(見所より見るところ

  • 自分の好みを知るということが結局自分を知ることなんだと思う: DESIGN IT! w/LOVE

    物的用を満たしつつ、心的用としての「好み」を満たすことが、物を作る人には求められるのでしょう。 「好み」という物に対する態度が自分である同じようなことを白洲正子さんも別の形で言っています。 現代人はとかく形式というものを軽蔑するが、精神は形の上にしか現れないし、私たちは何らかのものを通じてしか、自己を見出すことも、語ることもできない。そういう自明なことが忘れられたから、宗教も芸術も堕落したのである。 精神と形=物を別物として考えはじめたところに無理が生じたのでしょう。例えば、仏像を見るのに、宗教的な視点と芸術的な視点が分離したところに宗教の堕落も芸術の堕落もあったのでしょう。 「私たちは何らかのものを通じてしか、自己を見出すことも、語ることもできない」。 その意味で、自分の「好み」を明確にするということは自分自身を明確にするということなのだと思います。好みを知ることで自分を知るのです。自分

  • 頭で考えるのではなく、身体で直観する: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 どうしたらいいか?と考え悩むのではなく、あるがままにまずは受け止めてみることが大事なんだろう。 それはまったく「考えない」ということとはちょっと違う。 考えないようにするといってもそもそもむずかしい。ただ、おなじ考えるにしても、すぐにどうしたらいいか?と結論を急ぐのではなく、まずはあるがままをじっくり感じ取るということをしてみるのがいいのかもしれない。 慌てずに、じっくりと、瞑想する感じ慌てず、現状をゆっくりと把握する。そうする間になんとなく目の前のものにパターンが見えてくる。そう感じられたところで、一気に自分に見えているものを何かしらの形で書きだしてみるというのがいいのかもしれない。 考えに考え抜いた結果を外に出すというより、ゆっくりと観察した結果・感じた結果、見えてきた

    gitanez
    gitanez 2009/02/06
    id:stj064 さん、「直観」は根拠のないものではないですよ。根拠も含めて一気に掴み取るのが直観。当然、説明はわかる言葉で。
  • 感受性と行動力: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 風邪をひきました。発熱と咳で月・火曜日はほとんど動けず、どうしても外せない仕事の所用に顔を出した程度。ほとんど寝て過ごしました。今日は熱も37度前半に下がってすこし楽になりました。 というわけで、外部からの風邪の菌の侵入に身を犯されるのはつらいですが、その一方で、僕らはもっと外部からの刺激を自分の身で引き受ける努力をしていかないといけないのでは、と思います。 まず、情報に対してよそよそしすぎてはいけない。 そして、インプットばかりでアウトプットがないといけない。 外部からの刺激を自分の身で引き受ける努力というのは、インプットの問題ではなくアウトプットのほうの問題です。受け入れるというのは実はいったん引き受けた情報を編集・変換して外に出す作業をいうのだと思います。 「なぜシャ

  • ギリギリの経験が高めるアンテナの感度: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ブログを見ていると、たまに書くネタがないとか書いている人がいます。 ただ、それはネタがないんじゃなく、ネタを見つける感性が足りないんだと思うんです。 自分が興味をもって考えることができる、そういうものを日々の生活のなかで見つける感性が育てられていないということなんではないでしょうか。とうぜん、それはブログのネタが見つからないという局所的な問題ではなく、自分を成長させるとか高めるとかいう点で大きな問題だったりします。 ネタが見つからないのは、世界を見る視点、感じる感性を育んでいない自分自身の問題それこそ毎日生きていれば世の中にはブログのネタにできそうなことなんて山ほど転がっています。それが見つけられないというのは視力の問題です。山ほどネタが転がってる世界を自分自身で感じること

  • 二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑/佐治晴夫、松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 なんで、いままで、このを読まなかったんだろう。そんな後悔をしてしまうくらい、読んでよかったと思えるでした。 松岡さんの対談は、これまで内田繁さんとの『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』や茂木健一郎さんとの『脳と日人』を読みましたし、佐治晴夫さんの対談も養老孟司さんとの『「わかる」ことは「かわる」こと』を先日紹介したとおり、どれも面白く、とても興味を惹かれる内容でした。 でも、このはそのどれにも増して、素敵な一冊でした。20世紀の終わり(このの元になった対談は1997年の3月から1998年の3月の1年間で6回に分けて行われています)に1日の終わりに位置する「トワイライト」を1つのキーワードにして行われた対談は、佐治晴夫と松岡正剛という2人の人間による声の重な

  • トキメキについての感性がない: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 他人事と自分事。 ものや情報、そして、他人と接していて、その対象にどれだけ「近さ」を感じることができるか。それがものづくりにおいても生きていくうえでも大事なことじゃないかと思いはじめています。 愛着、恋、親しみ。まぁ、なんでもいいのですが、自分が接する相手(人でも、ものでも、情報でも)にどれだけ身近さを感じられるか。他人事ではなく自分事として感じられるか。一体感でしょうか。それがないとものづくりも、人生も すこし前に養老孟司との対談集『「わかる」ことは「かわる」こと』を紹介した理論物理学者の佐治晴夫さんが松岡正剛さんと対談した『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』というのなかにもおなじことに触れた掛け合いがあります。 はじまりは松岡さんのこんな発言から。 松岡 たまた

  • 感じることと考えること: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 モノや仕組み、ルールなど、すでにできたもののデザインを目にして、時々、「あーこのデザイン、考えられてないな」と感じることがあります。その場合の「考えられてない」は言い換えると、使うシーンや例外的使用のケースが想像ができてないな、イメージができてないなということだったりします。また、経年変化への対応あるいは対象となる量(組織の従業員数とか扱うデータ数とか)の変化を想像せず=考えずにつくっちゃったんだなと思うんです。 うーん、そういう意味では想像力に欠けた人がつくったのかなと疑問に思うデザインのものって多いんですよね。想像力の欠如がそのままデザインの品質に影響しちゃってるし、生活スタイル・ワークスタイルに何の提案力をもたないものができあがっちゃう。ちゃんと考えてつくってます?っ

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