心に大きな穴が開いた オーストラリア事件 僕自身は懸命に、誠実にやってきた。矢沢の音楽を枯らさないようにさまざまな工夫もしてきたけれど、でも悲しい事件は起きた。 その頃僕は、雑誌で読んだオーストラリア、ゴールドコーストに強く引かれて、そこに拠点を作ろうと考えた。1987年のことだった。大自然に抱かれて、ここから世界に発信していくスタジオや音楽学校を作る夢が膨らんだ。当初26階のビルを建てる予定で土地の取得を始めたりしているうちに、日本でバブルが崩壊してしまい、新しいビルを建てるのは時期を待つことにして、買収したビルにテナントを入れ、その収益で土地購入代の返済を続け、十分に採算の取れる運営を行った。 このオーストラリア事業は、信頼している2人の部下に任せていた。英語がうまく、現地で交渉ごとをさせるには適任と思えた人間と、金融関係や不動産関係の仕事経験が豊富な年長の人間。うまくやってくれる人選
魂の叫びだけで 100曲は書けない 音楽の世界では、大きく二つの働き方があります。作品を自ら作り表現する側、作り手を助けることでビジネスをする側。作り手を目指すといっても、ロックンロールの場合、ギターコードを三つ知っていれば曲が作れてしまう。でもその程度では100曲は書けません。自分の魂の叫びがいくら強くても、すぐに限界が来るのは冷徹な事実です。音楽表現を長く続けていくためには、継続的な訓練と学習が必要なのです。 この世界は見切りが早く、3年くらいやって芽が出ないと簡単に切り捨てられてしまう。レコード会社の責任もありますが、プロとしてお金を稼ぐというのはどういうことか、趣味でやるのと何が違うのか、若い時から考えなくてはいけないと思う。「俺はいい曲を書ける天才だ」といくら言ってみても、それにお金を払ってくれる人がなければ自称にすぎない。逆に500円でも千円でもギャラをもらえば、金額に関係なく
曲作りは苦しいが 妥協だけはしない 何のために音楽をやるのか、表現者としてどんな音楽活動をしていくのか。僕はそうした自分に対する問いかけを常にしてきました。功名のためとか、金もうけの手段として音楽を選んだわけではないがゆえに、自分の表現の必然性を自分なりに考えて生きてきたのです。 新人バンドなどがよく説得される言葉が「今だけ、ちょっと妥協しろよ」「売れたら好きなことができるから」。でもそれはうそです。自分の信じることを貫いてブレークスルーしなかったら、そこから先も絶対にやりたいことはできない。やりたくないことをやらされて売れたって意味がない。そういった音楽的信念、矜持(きょうじ)を保つ強さがないとプロミュージシャンは長くやっていけないのです。 自分の表現手段である音楽活動以外は、あれもやらない、これもやらないと、やらない尽くしのネガティブプロモーションが、結果的に僕には一番合っていたのだと
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