有賀喜左衛門も『民族』の編集委員の一人であり、昭和九年の日本民族学会の設立発起人も務めていた、その翌年に日本民族学会事務局は澁澤敬三邸内のアチック・ミューゼアムに移された。彼は明治三十年長野県生まれ、二高で渋澤と同期、岡正雄は二年後輩で、東京帝大美学美術史科在学中から朝鮮の仏教美術や陶磁器の研究を進めていたが、岡の紹介で柳田国男と出会い、日本の農村社会の研究の道へと入っていった。 これは佐野眞一の『旅する巨人』ではふれられていないが、有賀の農村研究は主としてアチック・ミューゼアムの調査活動として行なわれたようだ。昭和十二年にアチック・ミューゼアムは膨大な民具とともに、東京都下の保谷の八千坪の土地と二つの建物へ移転され、そこが日本民族学会事務局、付属研究所、民族学博物館ともなった。民俗学と民族学の両立は澁澤の方針だったし、十四年に開設され、毎日曜日に一般公開される民族学博物館は澁澤の思想の体