近代彫刻家・荻原碌山(号:守衛)の個人美術館。碌山は東穂高村(旧穂高町内、現・安曇野市穂高)出身で、「東洋のロダン」として知られる。当館はその作品と資料の蒐集、保存および公開を目的として、長野県下の小中学生をはじめとする約30万人の寄附を集めて、1958年4月に開館した。また碌山と関係の深い芸術家たち、高村光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎らの作品も併せて展示している。[2]
日比谷公園「鶴の噴水」(1905年津田信夫と共作)。 嘉永7年(1854年)、現在の京都府京都市伏見区の釜師、岡崎貞甫の子として生まれる。本名は庄次郎。釜師としての技術を習得後に21歳のときに上京し鋳工を学び、鋳金家の鈴木政吉の門人となった。 明治22年(1889年)のパリ万国博覧会に出品した作品が2等を射止め、また並行して各地の古仏像の調査研究を鋳造の面から研究してその名を高めたことで、後に岡倉覚三(天心)の知己を得て、明治23年(1890年)に東京美術学校鋳金科の教師となる。明治25年(1892年)に制作した『執金剛神』像がシカゴ万国博覧会出品作に選ばれるなど、その後も精力的に作品を制作し、同29年(1896年)には鋳金科教授となった。日本美術院の設立にも名を連ね、香取秀真や津田信夫ら数多くの鋳金家を育てた。墓所は東京都文京区向丘の清林寺。 雪聲は彫金技術もさることながら、その鋳造技術
英一蝶は承応元年(1652)、京都で生まれました。父の多賀白庵(はくあん・伯庵)は伊勢亀山藩主・石川主殿頭憲之(とのものかみのりゆき)の侍医をしており、一蝶が15歳(あるいは8歳)のときに、藩主に伴い一家で江戸に下りました。母の姓は一説に「花房」であったとされ、島流しから江戸に戻った後に名乗る「英」の氏は母方に由来すると考えられています。 狩野宗家の狩野安信に入門し、江戸狩野派の高い絵画技術と、古典に関する幅広い教養を身に付けた一蝶は、次第に狩野派の枠を飛び出し、独自の絵画世界を確立していきます。生き生きとした人物描写と、ユーモアあふれる視点、狩野派仕込みの確かな画技が合わさった唯一無二の風俗画によって、一蝶は一躍人気絵師へと上り詰めました。また、古典画題にひねりを加えた戯画も多く、安信門下で得た知識を一蝶ならではの表現へと昇華させています。 このような新鮮な感性は、俳諧を通して培われたと
ポスト印象派の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホが1889年に描いた『星月夜』は、人類の芸術が生み出したもっとも魅力的な作品の一つだ。 その夜空に描かれた渦巻模様は、ゴッホの圧倒的な才能によって直感的に描かれたイマジネーションの世界に思える。だが、じつは物理的に正しいことが判明したという。 最新の研究によると、ゴッホの筆遣いによる渦巻は、乱流の物理学が予測する流れにピタリと一致するというのだ。 ゴッホが物理学に精通していたという話は聞かないが、もしかしたらそれは画家の圧倒的な観察眼の賜物かもしれない。彼の自然への理解は、宇宙のダイナミズムにも通じるほど深かった可能性がある。 ゴッホの星月夜の絵画を乱流理論と比較分析 肉眼ではほとんど分からないが、地球の大気は常に動き、変化し続ける流動体だ。 1940年代、ソ連の数学者アンドレイ・コルモゴロフは、それによって発生する乱流についての理論を発表した
レオナルド・ダ・ヴィンチがルネサンス期を代表する天才的人物なのは誰もが知るところだ。 単にこの時代に生きていたというだけでなく、芸術家であり、科学者であり、音楽家であり、人体の詳細な解剖図を描いた観察者であり、フランス王に捧げる機械仕掛けの人形の製作者でもあったマルチ人間だった。 それだけでもすごいのに、彼は他にもすごい才能を持っていた。実は彼は優れた 香水の調香師でもあったのだ。 ダヴィンチの生きた時代、香水が重要だった理由 万能の天才と言われる、レオナルド・ダ・ヴィンチ、はかつてイタリアに存在したフィレンツェ共和国で1452年4月15日に生まれ、1519年5月2日に67歳でこの世を去った。 彼の生きたルネサンス期には、香水が非常に重要な役割を果たしていた。 香水の目的は、単に体臭を消すためにいい香りを漂わせるというためだけではありませんでした ルネッサンス期の香水は、日常生活のさまざま
ジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタン(Jean-Joseph Benjamin-Constant、出生時の名はJean-Joseph Constant、1845年6月10日 - 1902年5月26日)はフランスの画家である。 パリで生まれた。父親のジョセフ=ジャン=バプティスト・コンスタンは地理学者である。1847年に母親が亡くなり、トゥールーズに住む叔母の家で育てられた。1860年からトゥールーズの高等美術学校で、ジュール・ガリピュイ(Jules Garipuy)に学んだ後、1866年にパリの国立高等美術学校に入学し、アレクサンドル・カバネルの学生となった。ウジェーヌ・ドラクロワの影響を受けて、「オリエンタリズム」の画家になり、画家仲間のジョルジュ・クレラン(Georges Clairin:1843-1919) とアンリ・ルニョー(Henri Regnault:1843-1871)
江戸時代後期の絵師・葛飾北斎(1760~1849年)が小布施町を初めて訪れたのは、1842年、数えで83歳のときのこと。小布施町の豪農にして文化人だった髙井鴻山(たかいこうざん/1806~1883年)の居宅を北斎が訪ねたのでした。その理由は諸説あり、文化活動に理解のある鴻山が江戸滞在中に北斎と知り合い、小布施町に招いたから、あるいは、天保の改革によって贅沢を禁止され、江戸での創作活動が難しくなったからなど。きっかけはともあれ、北斎は生涯に4度小布施町を訪れ、鴻山の求めに応じて作品を仕上げたといわれています。 生涯に30回も雅号(がごう)を改めたといわれる北斎。小布施町で過ごした頃の雅号は「画狂老人卍(がきょうろうじん・まんじ)」。当時85歳だった北斎は、小布施町・東町祭屋台天井絵《龍》と《鳳凰》、翌年には上町祭屋台天井絵《男浪(おなみ)》と《女浪(めなみ)》2図からなる怒濤図を描き上げます
この画像を大きなサイズで見るLady Fragrant, at 7 years old by A. M. Gauci (1848–1882) 19世紀の英国、静かな田園地帯にいる1頭の牛の絵。なんのことはないごく普通の光景だが、なんだかどこかが変だ。 これは「イングランドの長方形の牛」という、長いこと人々の興味を刺激してきた芸術的ミステリーなのだ。 絵の中心にいる一頭の牛の存在感はかなりリアルだが、その体はやけに四角い形にデフォルメされていないだろうか? なぜ、こんな描き方をしたのだろう? その秘密に迫ってみよう。 裕福な農家が富と地位を誇示するために描かせた家畜絵画 19世紀の英国では、裕福な農家が富と地位を誇示するために、飼っている牛やブタ、羊など家畜の絵を描かせた。 こうして描かれた作品は、動物たちの体のサイズが通常とは異なる比率でやたら大げさに大きく描かれたものが多かった。 例えば
古代ギリシャの彫像「サモトラケのニケ」がそうであるように、古代ローマ時代に作られた彫像の一部には首がないことがあります。「なぜ首がないのか」について、海外メディアのLiveScienceが解説しています。 Why are so many Roman statues headless? | Live Science https://www.livescience.com/archaeology/romans/why-are-so-many-roman-statues-headless ブルックリン大学で古典学・美術史の教授を務めるレイチェル・クーサー氏によると、彫像の首がなくなる最も一般的な原因は「破損」とのこと。彫像において首は比較的もろい部分で、展示や譲渡などによって世界中を移動する際に破損してしまうケースが多いそうです。 また、古代ローマ人は意図的に彫像を破壊することもあったそうです。
ユーグ・メルル(Hugues Merle、1822年4月28日 - 1881年3月16日)はフランスの画家である。人物画、女性を多く描いた。 略歴[編集] イゼール県のラ・ソーヌに生まれた[1]。エコール・デ・ボザールでレオン・コニエに学んだ。1847年からサロン・ド・パリに出展を始め、1849年に若手画家の登竜門である、ローマ賞に応募するが入賞することはできなかった。サロンでは1861年、1863年に2等を受賞した。 1860年代の初めにパリの画商、ポール・デュラン=リュエルと知り合い、作品を買い上げられるようになった。デュラン=リュエルから同世代でローマ賞受賞者のウィリアム・アドルフ・ブグローを紹介された。2人は少女や女性を多く描き、ライバルとして競うことになった。 1866年にレジオンドヌール勲章(シュバリエ)を受勲した[2]。 息子のジョルジュ・メルル(Georges Merle:
オットー・ファン・フェーン『ペルシアの女性』 アナシルマ(Anasyrma、古代ギリシア語: ἀνάσυρμα)[1]は、スカートやキルトをたくし上げるジェスチャー。これは、特定の宗教的儀式、エロティシズム、および下品なジョークに関連して使用される。この用語は、対応する芸術作品を説明する際に使用される。 アナシルマは事実上「性器の露出」である。 これは、性的興奮の表現ではなく、宗教や芸術作品に見られる露出の一形態であり、常に女性が自分自身を露出する行為を指す。スカートをたくし上げて性器を露出する行為は厄祓いの手段になる可能性がある。戦争の状況では、敵の恐怖を呼び起こすことができる。それはまた、驚かせ、それに続いて笑わせたり、悲しみを解消させたりする行為である可能性がある。アナシルマについて重要なことは、それが女性器と、出産に通じる生殖器の部位の崇高さを反映しているということである。いくつか
美術館にお勤めの学芸員さんには、展覧会を企画するだけでなく、自身の研究成果を論文や著書として広く発表するという大切なお仕事もあります。 1889年(明治22年)に第1号を創刊した、日本で最も歴史のある美術雑誌『國華』や大学の研究紀要それに学会での論文発表などから、街中の書店やAmazonで扱う一般書籍までその活躍の場はさまざまです。 今回は東京美術出版より6月に刊行となった『ロートレック作品集』をお書きになられた、三菱一号館美術館上席学芸員の安井裕雄さんに執筆に当たり留意した点や他の作品集との違いなどについて伺ってきました。 日本でも人気の高いトゥールーズ=ロートレックについての新しい知見も満載です。 中村:まずは『ロートレック作品集』上梓おめでとうございます。まずはこのロートレック本をお書きになるにあたり、苦労した点をお聞かせ下さい。 安井学芸員:トゥールーズ=ロートレックの伝記、作品集
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2024年4月) ヴァルター・シュピース(1930年代) ヴァルター・シュピース(ドイツ語:Walter Spies, 1895年9月15日 - 1942年1月19日)は、ドイツの画家。現代バリ芸術の父として知られ、1930年代バリ島におけるバリ・ルネッサンスの中心人物として活躍し、今日見られるような観劇用のケチャやチャロナラン劇(英語版)をバリ人とともに創出した。 シュピース『朝日の中のイサ』 1895年、ロシア帝国・モスクワのドイツ人外交官を務める裕福な商家の次男として生まれる。音楽、舞踊、絵画教育を受けるなど裕福で恵まれた少年時代を過ごすが、第一次世界大戦中にはウラルの敵国人抑留キャンプに収容された。この
『神々の饗宴』[2](かみがみのきょうえん、伊: Festino degli dei)は、イタリアの画家ジョヴァンニ・ベッリーニにより1514年に描かれ、画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオにより1529年に加筆が行われた絵画である[3]。『神々の祝祭』[3]とも。 ベッリーニの晩年の作品であり、自らの弟子たち、中でもジョルジョーネの影響を受けていることがうかがえる[3]。ワシントンにあるナショナル・ギャラリーに収蔵されている[2]。 古代ギリシャの神々が集っている場面が描かれている[4]。 画面左端に見えている、半人半獣の姿を目印とするサテュロスは、その性格から淫欲や悪徳の擬人像とされる。その隣にいる、赤い服を身につけている男性は、田舎の神、シレノスであり、連れているロバが目印となり、怠惰の擬人像とされる[4]。 そのロバの前で、ワインを酒樽から注いでいるのは、ワインが入れられたグラスと頭
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