ブックマーク / kotobasm.hatenablog.jp (91)

  • 戦争とはニンゲンの本能である【爆撃機ローンサム・レディ号 -広島原爆秘話-】 - KOTOBASM

    先日、「あの日 あのとき あの番組 ~NHKアーカイブス~」で、この番組を観た。昭和53年にNHK特集として放送されたものである。すなわち戦後33年ということになる。 8月6日二十数万の市民が犠牲となったあの惨禍の中で爆撃機B−24の捕虜たちはどんな運命をたどったのだろうか。 私たちNHK広島の取材班は1年前からこの謎に包まれた広島のアメリカ軍捕虜について取材を始めました。 しかしアメリカ政府はこの問題について戦後33年間一斉の公式見解を避けています。 日側の関係者もほとんど亡くなっていて一向に手がかりがつかめませんでした。 ところが偶然にも去年の11月東京の外交史料館から連合軍の捕虜名簿が見つかりました。 そこには「広島で20人が原爆で死んだ」と記録されていました。 ”ローンサム・レディ” 孤独の貴婦人号は、昭和20年7月28日に、地上戦を制した沖縄から、さらに日軍にとどめを刺すべく

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  • 非情のライセンス【野際陽子】 - KOTOBASM

    現実に遭遇して、はじめて気づいた。野際さんでも死ぬのかと。いやなにを当たり前のことをいわれるかもしれないが。それでももうひとつ追加するなら野際さんでも81歳になるのかと。 まあそれだけ年齢を感じさせない美貌を保ちつづけておられたということだ。みる人々の憧れの視線を裏切らない方であったから、亡くなる直前まで、テレビカメラの前に立ち続けた。 彼女の代表作のひとつにTBSドラマ「キイハンター」がある。生まれる前なので、編は観たことはなかったが、オープニングはなんども観たことがある。格闘術を使いこなすという役で、オープニングにも出てくるが、悪人をぶん投げるのが得意技。 実は野際さんご人はアクションがあまり得意ではなくて、それでも投げるのであれば、悪役のヒトが動きに合わせて回ってくれるので、できたのだとか。そういえばたしかに”非情”というわりには、オープニングを観るとどこか照れがあるみたいだ。

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  • アイドルの結婚について【おニャン子クラブ】 - KOTOBASM

    AKB48の第9回選抜総選挙というイベントで、須藤凜々花というヒトがスピーチで結婚宣言をしたということで話題になっている。それにたいして、会場の外にかけつけたという”都内在住の40代男性”のコトバが興味深い。 「あり得ない。これから頑張ってもらうために票を積んだファンが報われない」と激怒。 須藤凜々花 掟破りの結婚宣言…ファンの批判殺到「裏切られた」― スポニチ Sponichi Annex 芸能 おなじ40代の者からいわせてもらうが、アイドルのファンなどというのは、報われなくてあたりまえなのである。そもそもアイドルのファンの報いというのはなんなのか。 もしあわよくば結婚が狙えるかも、という夢を見つづけられるということなら、それは現実を見ろとしかいいようがない。アイドルのファンで居つづけるのが、儚いものだというのは、40もすぎたニンゲンならわかっているはずなのだ。 だいたいいうまでもないが

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  • 一流悪玉レスラーの条件【ジプシー・ジョー】 - KOTOBASM

    たべこさんのブログを拝見していたら、ジグソーのスカイハイのYouTube動画があって、あまりの懐かしさで感動してしまった。スカイハイそれはあのプロレスラー、ミルマスカラスの入場曲でもある。 曲にあわせて躍動するマスカラス。だが今回は彼が主役ではない。この動画で最初に彼と戦っている、みるからにワルなレスラーについて話をしたい。”ミルマスカラス”と戦う”みるからにワル”、彼の名はジプシー・ジョーという。 ついこないだお亡くなりになったなあと思っていたら、今月の15日でちょうど一周忌だった。1975年に初来日してから、国際プロレスや全日プロレスで常連外国人として活躍した。 当時の国際プロレスのパンフレットでは「スペイン北部のバスク地方を放浪するジプシーの若きリーダーであったが、仲間に迫害を加えた白人をジプシーの "血の報復" の掟によって殺害し、国外に逃亡してマット界に身を投じた」などとされて

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  • お笑いスター誕生紳士録【その4・でんでん】 - KOTOBASM

    それはいつも「やあ。みんなハッピーかい?」のひとことではじまる。お笑いスター誕生におけるでんでんのネタのことだ。このスタンダップコメディ風のネタで彼は8週勝ち抜き金賞を受賞する。ちなみに10週勝ち抜くとグランプリ獲得である。 でんでんのすごかったのは、30歳でお笑いをはじめて、素人のまま番組オーデションに合格しあともう少しのところでグランプリというところまでいったところだ。いまや事務所所属の者たちでギチギチなので、もうこういうヒトは現れないだろう。 さらにすごいのは、ある程度のところで俳優に転身し、いまでも活躍しているというところだ。きっとあのままお笑いを続けていたら、このヒトもテレビの世界からはフェードアウトしていたかもしれない。 そこは形態模写だけのモノマネから、声まねを加えてさらなる飛躍をとげたコロッケと似ている。お笑いのネタというのは、実は息の長い芸能人になるためのとっかかりにすぎ

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  • 北海道放送【特集・昭和なテレビクロージングの世界】 - KOTOBASM

    北海道放送(HBC)は、1952年(テレビ部門は1957年)に開局された放送局で、関東では1チャンネルといえばNHKの総合テレビだが、北海道ではHBCが1チャンネルである。 そんなわけでクロージングもやはり古いのであった。1960年代のものか。いや厳密にいうとクロージングに入る前のあいさつみたいなものであろう。各基地局名や周波数のアナウンスがないので。それでも貴重なのには変わりない。 同様に貴重であるのが、映像中に出てくる局舎がいまだに残っているということだ。白黒映像で夜に撮ったものだから、幻想的にみえるのだが、幻でも遠い記憶のなかのものでもない。ちゃんとあるのである。 だがそんな局舎もとうとうなくなってしまうらしい。老朽化がすすんでいるからだとか。このクロージングを撮影したスタジオもなくなってしまうのかと考えると、ひじょうに残念である。 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続

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  • 12チャンネルしか観られないテレビ【東京12チャンネルの話はまだまだつづく】 - KOTOBASM

    子どものころ、わが家のテレビには、リモコンがなかった。というか”リモートコントロール”という概念が当時なかった。ではどういうふうにチャンネルを変えたのかというと、テレビ体についているチャンネルつまみを回して変えていたのだ。 昭和50年代少年少女のみなさんは、なに当たり前のことをと言うかもしれない。けれども常識などというのは、けっこう意外とそのときどきで変わる。これからの時代チャンネルを、”回”したことのないヒトタチが、どんどん増えていくのだ。 電話だってそうだ。”ダイヤル回してまだ好きだよと”などという歌詞をきいても意味のわからないヒトというのは、これからどんどん増えていき、知っている我々を数的に追い越していくのである。 題に入ろう。そのむかし、わが家のテレビのチャンネルが変えられなくなるという事態がおきた。どうやらつまみと体をつなぐ部分がバカになったらしい。12チャンネルに合わさっ

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  • 開局【東京12チャンネルの話はまだつづく】 - KOTOBASM

    テレビ東京の前身、東京12チャンネルは、昭和39年の4月12日に開局された。当時は日経済新聞社が経営参加しておらず、運営母体は、財団法人日科学技術振興財団というところだった。 当初は、科学技術教育番組60%、一般教養番組15%、教養・報道番組25%を放送するというのが、国からの開局の条件だった。あわせて100%ということは、つまり娯楽番組はいっさい放送できないということでもある。 これは開局当時の新聞広告で、”良識が求めて登場”などと書かれているが、良識でテレビ局が成功するほど甘くはなかった。そりゃあもちろんテレビを利用して勉強したいという有志あるヒトもいたかもしれない。 でも言い方は悪いが、しょせんテレビは”バカと暇人が観るもの”なのである。国がはじめからテレビ局を、NHK総合テレビ教育テレビNETみたいな教育番組専門局のみにしておけば別だが、このころすでにテレビは娯楽番組が中心

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  • てめぇの馬鹿さ加減にはなぁ、父ちゃん情けなくて涙が出てくらぁ!【あばれはっちゃくシリーズ】 - KOTOBASM

    子どもの時分における土曜日の19:30。いつも必ずチャンネルを「10」にあわせていた。はじまりはいつも小芝居で、見事にオチが決まったあとに、オープニングテーマは流れる。 「あばれはっちゃく」は子供向けの小説シリーズで、1979年から1985年にテレビ朝日系列で毎週土曜日にテレビドラマとして放送された。毎回パターンは同じなのに、つい観てしまう。きっとそれだけ中毒性のあるドラマだったのだ。 毎回主人公の桜間長太郎が何かやらかして、父ちゃんが長太郎をはり倒す。そしてお決まりの”てめぇの馬鹿さ加減にはなぁ、父ちゃん情けなくて涙が出てくらぁ!”のセリフ。父ちゃん!上のヒトにヘコヘコしてばかりいないで長太郎の真意わかってやれよ! 毎回そんなことを思いつつ観ていた。こんなの今だったらまず放送できないであろう。それ以前にこういう子供向けのドラマじたいが民放でやらなくなってしまったし。 よくもまあ、あのころ

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  • この銭湯行ったことある!【可愛かずみ】 - KOTOBASM

    YouTubeをなにげなくみていたら、ひょうきん族の動画をみつけた。ひょうきんベストテンが懐かしい。そしてこのコーナーで中森明菜の歌といえば、可愛かずみさんである。いま観てみると実は彼女、歌が上手だったのだなあ。 この動画に登場する「若松湯」であるが、実は何度も行ったことがある。90年代になるが、自衛官にとして、いまはなき市ヶ谷駐屯地に勤めていた。基地にももちろん風呂はあるのだが上官や同期と飲みに行きがてら、この若松湯に寄っていたのである。 現在では市ヶ谷駐屯地も防衛省になり、フジテレビもお台場に移って跡地はマンションになり、若松湯もなくなってしまった。そして可愛かずみさんがお亡くなりになって、今年でちょうど20年になった。 可愛かずみさんは、芸能人としてとびぬけた美貌を持っているというわけではなかったけれども、親近感の持てる可愛らしさがあるひとだった。えてして初恋のひとってこういう感じで

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  • 無思想のブス【しのざき未知】 - KOTOBASM

    フジテレビの「ものまね王座決定戦」において、彼女の存在は賛否両論あるであろう。かくいう当ブログ管理人も、あまりものまねを逸脱して笑いをとる出演者は笑えないタイプである。ものまねはものまね。ネタはネタで別の企画でみたいのだ。 ただこのヒトみたいに突き抜けていると、くだらないからかえって笑える。ダチョウ倶楽部やピンクの電話なんかは、”そうはいってもまあプロ”感がみえてしまうのだが、しのざきの場合は、アマチュアリズム全開なツキヌケ感が潔いのでおもしろいのだ。 このヒトは最初、初期の「笑っていいとも」に出ていた。ブスコンテスト的な企画だったと記憶しているが、初期の笑っていいともは、番組もタモさんも、キワに走るヒトタチをたくみに面白くみせていた。大屋政子しかりたこ八郎しかりである。 また当時15歳だったしのざきも、キワとしての天賦の才能をタモさんの下でいかんなく発揮していた。テレビに出る”ブス”

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  • ワイドショーの申し子【松田聖子】 - KOTOBASM

    80年代という時代は、テレビワイドショーの爛熟期であった。それはすなわち末期には腐りかけていたということにもなるのだが。ハナっから腐っていたのかもしれない。そのようなワイドショーを松田聖子というヒトはうまく渡り歩いていた気がする。 そのむかし(昭和58年)彼女がコンサート会場でファンからの襲撃を受けるという事件があった。そのときの生々しい映像が、ワイドショーなどで流された。そのときはちょうど「歌のトップテン」が中継予定だったのでカメラが回っていたのだ。 スポーツ新聞には鉄パイプで殴られたと書いてあったが、事件の一週間後には何わぬ顔で聖子は復帰していた。なんのことはない。鉄パイプではなく、工事用のプラスチックのパイプだったのだ。どうりでポコポコといい音がすると思った。 ちなみに襲撃犯は埼玉県の19歳のファンで、ノイローゼを患い精神病院に入っていたそうで、外泊許可をもらって家族と東京で買い物

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  • 泣きの美喜子【それは秘密です!!】 - KOTOBASM

    雨止んでひと傘を忘る。兎角人間は時の流れに過ぎし日のことを忘れがちなものです。推理と思い出のご対面。それは秘密です!! という桂小金治の名調子でその番組ははじまった。 「それは秘密です!!」は、日テレビで火曜日の19時30分から放送された。”泣きの小金治”こと桂小金治が司会で、生き別れた家族など、会いたいヒトを捜索するというヒューマンバラエティである。 うちの母・美喜子はこの番組が大好きで、毎週欠かさずといっていいほど観ていた。ふだんはドラえもんに出てくるジャイアンのお母さんのようにギャースカうるさい母だったが、この番組を観ているときは違った。 茶の間で当ブログ管理人もいっしょに観ているのだが、母はたいてい同じようなところで泣くのである。だいたい探してきたヒトが出てくる直前、そのヒトの手紙を小金治が読み上げているところだ。 母のかたわらで息子はというと、「泣くぞ。泣くぞ。ほら泣いたー。」

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  • お笑いスター誕生紳士録【その1・プロローグ】 - 昭和KOTOBASM

    当ブログ管理人のお笑いのルーツはなんなのか。そもそもルーツ(原点)などというのを限定するのは不可能であるのだが。幼少期においていろいろな要素があって、それでなぜかお笑いをやるようになったというのが正直なところであるからだ。 ただひとついえることがある。それは「お笑いスター誕生!!」という番組が小学生のときにあって、この番組をみてはじめて、この舞台に自分も立ってみたいと思ったということだ。 「お笑いスター誕生!!」は、1980年から86年まで、日テレビで土曜日の12時に放送されていたオーデション番組である。初期にはサラリーマン時代のとんねるずなんかも出演していた。 よくヒトに聞かれるのが、コンビでお笑いをやろうと思ったことはないのかということなのだが、コンビでやろうという考えは正直なかった。たぶんそれはこの番組の出演者で好きだったヒトがみなピンだったということが影響していたのだと思う。 ま

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  • マイ・ピュア・レディ【小林麻美】 - 昭和KOTOBASM

    におけるテレビCM史のなかで、資生堂のコマーシャルというのは、大きな足跡を残している。今日にいたる資生堂のブランドの力はコマーシャルによってつくられたといっても過言ではあるまい。 なんて堅いはじまりになってしまったが、要はおしゃれなのだな。そういえばむかし、資生堂の一社提供番組に「おしゃれ」っていうのがあったが。みたことないけど。男はみなくていい番組だったであろうし。 その数ある資生堂のコマーシャルのなかで印象に残っているのが、このマイピュアレディであった。この小林麻美の美しさは言葉で形容しがたいものがある。小林麻美というとワンレングスというイメージだが、髪型は断然こっちのほうがよい。 そして特筆すべきは彼女のこの目ヂカラであろう。最後のホーローのカップでなにかを飲みながらカメラをみつめるその目は、みているヒトの目をくぎ付けにしてしまう。そこで「マイピュアレディ」の文字と声がかぶる。さ

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  • ”今様”(CBC)【特集・昭和なテレビクロージングの世界】 - 昭和KOTOBASM

    テレビ、TBSときたからには、つぎはフジテレビだろうと関東民の昭和50年代少年少女は思っていたかもしれない。だがそうは問屋が卸さない。たんなるきまぐれだが今回は地方の昭和テレビクロージングの世界を紹介したい。 CBCは愛知県にある放送局である。題名にある今様(いまよう)とは、古来からある日の歌曲の形式だ。このクロージングははっきりいって怖い。おそらく数ある日テレビ局のクロージングのなかで、いちばん終末感が漂っているので注意が必要だ。 なのでオープニングもいっしょの動画を載せてみる。まずはオープニングで和んで、そのままの流れでエンディングを観ていただければよろしいかと。オープニングの音楽は1日のはじまりにふさわしいものとなっている。 ヒトは死んだらお星さまになるんだよなんていうが、まさにその過程をみているかのようではないか。BGMの今様がまたもの悲しさを倍増させている。山田耕作の編

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  • 屋根の上の歌うたい【岡本南】 - 昭和KOTOBASM

    そのむかし、テレビのゴールデンタイムで、女のヒトの裸がふつうに流れていた時代があった。というか昭和という時代そのものがそういう時代であった。いまでは信じられないが。 ドラマ「時間ですよ」もそのうちのひとつであった。舞台が銭湯ということもあって、必然性のないところで、とにかく女のヒトの裸が、わっさわさとまるでイナゴの大群のように現れたのであった。 ちなみに「時間ですよ」というのは、オープニング恒例で営業時間になったということを、従業員が女将さんに告げる合図の言葉である。すなわちドラマのはじまりを告げる合図でもあるというわけだ。 このドラマシリーズは平成元年まで、女将さん役の森光子以外の出演者を変えつつ、続いてきたのだが、必ずひとり女の子の従業員がオーデションで選ばれて出演していた。浅田美代子なんかもそのうちの1人だ。 たいていその従業員役の子は屋根の上に上がって歌を歌っていた。とりあえずオー

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  • 鳩の休日(日本テレビ)【特集・昭和なテレビクロージングの世界】 - 昭和KOTOBASM

    そのむかし、テレビがアナログでいまみたいに24時間放送するのがあたりまえではなかったころ。その日の放送開始・終了を告げる局名告知(ジャンクション)というものがあった。 というわけで、あらたにはじまった特集記事は、「昭和なテレビクロージングの世界」である。この放送終了(クロージング)の局名告知が好きだった。この独特な雰囲気と終末感がたまらないのである。 放送局は放送の開始及び終了に際して、呼出符号または呼出名称、周波数及び送信方向をを放送しなければならないという決まりがある。これは在京キー局であっても地方局でも同じで、北は北海道から南は沖縄まで、さまざまな局名告知が存在する。 その代表的なものが、日テレビの「鳩の休日」である。1953年8月28日の開局以来、マイナーチェンジがありながらも、2014年までの長きにわたって流されてきた。 観られないとき、消去されている場合はこちら ちなみに「鳩

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  • 番組内で1から人気者を作る時代【萩本欽一】 - 昭和KOTOBASM

    前回の記事で、”欽ちゃんの時代が終わるというのは、ある意味番組内で1から人気者を作る時代が終わったということでもある”と書いたが、説明不足であるので、もう少し補足したい。 kotobasm.hatenablog.jp 欽ちゃんこと萩欽一は、自身の番組でよく無名のタレントや俳優、さらには素人まで出演させる。柳葉敏郎なんていまや俳優として大物になってしまったが、元をただせば欽ちゃんの番組(欽ドン)の出身である。 オーデションを受けて合格したのだが、その合格理由が”オーデションが終わってすぐ家に帰ってくるような寂しいヤツだったから”である。欽ちゃんがスタッフに電話をかけさせて、いちばん最初に出たのが柳葉だったのだ。 そのほかにも欽どこに出ていた見栄晴みたいに最終選考に残ったふたりでじゃんけんをして勝ったから合格なんていうのもある。はっきりいって誰でもよかったのだ。もはや運である。しかし見栄晴も

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  • この雑誌の購読者層はどうなっているのか【ファミ通】 - 昭和KOTOBASM

    私事だが働いている障害者施設で、黙々と紙をちぎるのが好きでそれを日課にしているヒトがいる。ちぎる紙は古新聞や古雑誌で、たいてい職員が持ち寄ったりしている。そしてある日なにげなくその風景を眺めていた。 するといまにもちぎられようとする紙面のある絵が目についた。そしてそれを手にとった。おめーなにすんだよといっているかのような彼女の視線を尻目に、その紙面の絵を凝視した。 みるとその雑誌は「ファミ通」というゲーム雑誌で、どうやらそのなかの読者投稿欄であるらしいのだが、なぜこのようなゲームとは関係ない内容の投稿があるのか。しかし他の投稿も独特で、いわばカオスといった内容になっていた。 ゲーム雑誌なんて子どもが読むものだと思っていたが、このセンスは子どものものではない。いまどきの若者でもないだろう。いまどきの若者であったなら、野球帽に”南海”なんて書かないであろうから。どうなっているのだ購読者層。 そ

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