信長、秀吉らによって天下が定まるころに、黒田官兵衛は数万石から10万石ほどの小大名にすぎませんでした。 彼らに後れをとっていた家康が、彼らの死後にようやく天下に名乗りを上げたように、秀吉の配下だった官兵衛も、秀吉死後にようやく自分の勝負に立てます。しかし天下人候補と呼ぶには、力が全く足りません。 官兵衛が天下を争えるとしたら、秀吉の天下取りを正直に助けることなく、将来自分が後釜に収まるように立ち回ること。あるいは、秀吉死後の世で天下をうかがうために、家康のように長生きすることが求められたと思います。 史実の官兵衛はそうではなく、秀吉配下にあっては天下を望んでいません。 秀吉死後には野心が芽生えたかもしれませんが、それを成就するには家康が邪魔だったし、自身の健康も足枷となります。 健康と言えば、官兵衛が荒木村重に幽閉されて足が萎えたことも、彼の限界を手前に設定した要因かもしれません。