理由って結局は後付けの言語化でしょ? まず最初に感覚的なふわっとした「好き」か「嫌い」があって、そこから必要に応じて理由を考えるわけじゃん。 俺は「好きに理由は無い/嫌いな理由はある」派だけど、なんでそうなるかっえいうと言語化の必要性ってところが大きい。 だって好きの理由をわざわざ分析して言語化する必要なんてなくない? 逆に嫌いな理由はちゃんと考えて言語化する。 俺が嫌いなものを好きな人もいるだろうから、そこを頭ごなしに否定したくないから。マナーみたいなもんだね。
だいぶ前に、ふとした拍子に「好きな作品なら理由が言えるはずだ」と言ったら、「逆でしょ。嫌いなものには理由があるけど好きなものには理由がない」と返されて考え方の違いに驚いたことがある。 その時はそれも筋が通っていると感じたからそれ以上は踏み込まなかったが、思い返すにまだ腑に落ちないものがある。 それは、結局突き詰めて考えると、自分が「好きなものには理由がある」と言う場合、加点法を念頭に置いているからだ。 加点法と減点法 一般的に加点法と減点法ということを言うとき、加点法の方が分別があるとか生産的だとか言う。 そして加点法で言うならば、「好きな理由」を上げていくことが評価のスタンダードでなければいけない。 となれば、逆に「嫌いなことに理由がある」という考え方は、減点法であり、非生産的な考え方であると言えるはずだ。 しかし一方で、「好きなものはなんとなく好きで、特に嫌いな理由があるときだけ嫌い」
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