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「ネットカフェ難民」という言葉が初めて使われたのは、2007年1月に放映された「NNNドキュメント」(日本テレビ)だった。たまたま深夜にこの番組を観た私は、暗澹たる気持ちを抱えたまま、布団にもぐりこんだことを鮮明に覚えている。 番組では、10代、20代の男女が昼は日雇い派遣で働き、夜はネットカフェの椅子で眠りながら、100円200円を必死で切り詰めて生活している姿が映し出されていた。ある18歳の女の子の手帳には、「強くなる」「責任感を持つ」の言葉の後に「夜ご飯食べない」という文字が書かれていた。 どうしてそういう生活に陥ってしまったのか。誰も頼る人はいなかったのか。這い上がるチャンスはどこにもないのか──「夜ご飯食べない」という言葉が放つ切実さに衝撃を受け、疑問が次から次へとわいた。以降気がつけば、私は貧困やワーキングプアを取り上げたドキュメンタリーをチェックするようになっていた。 この手
『グローカル』588号(4月23日号)より 紹介 これでいいのか 社会ダーウィニズムによる新階級社会 「機会不平等」(斎藤貴男・文芸春秋) 大 井 択 朝、人々は今日も慌ただしく歩き、電車に吸い込まれていく。昨日と同じ仕事に、だろうか?「人身事故」(いつからこういう呼び方がされるようになったのだろう)で不通になっているというアナウンスにしかめられる顔、顔、顔。今や年間三万人に達するとされる「自殺者」。日本社会はその人達を生贄にすることによってしか成り立たない苛酷な社会に成り果てた。ホームから身を投げ出したかもしれない「人身」とは、顔をしかめた者の身代わりだったのかもしれない。 膨大な人々の群れはしかし、量としていかに大きくとも、誰ひとりとして複数の身体を所有しているわけではない。かけがえのなさとは拘束された視界の別名でもある。誰もが限定された自らの生活空間、思考空間という檻の中でも
河出書房新社 2007年4月 本書を読んでみる気になったのは、赤木智弘氏の「若者を見殺しにする国」を読んで今ひとつすっきりしない点が残ったためである。赤木氏の議論では、絶対的な貧困と相対的な貧困が充分に区別されていないように思えた。絶対的な貧困とは「飢えて生きていけない」ということであり、相対的な貧困とは「尊厳がなくみじめである」ということである。 赤木氏は「いまでこそフリーターは、私のように親元で生活できている人も多く、生死の問題とまで考えられていないのですが、親が働けなくなったり死んだりすれば、確実に生死の問題となります。それまでの生活水準を維持できないのは当然として、フリーターの給料では自分ひとりですら生きていけるかが怪しく、ホームレスになるか自殺するかの二者択一になる可能性が高いのです。すくなくとも家が資産家でもなんでもない私は、その二択を迫られるでしょう。/ ちなみに私は、どうせ
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