戦時中の日本政府は「逃げるな、火を消せ」という防空法と、「空襲は怖くない」という情報操作を実施した。その全体像は前回記事(「空襲から絶対逃げるな」トンデモ防空法が絶望的惨状をもたらした)で紹介した。 この体制下で人々はどのように追い詰められたか。県知事が「逃げる者は処罰する」と布告した青森の実例をみることにする。ここでは、第一次と第二次の空襲の間に恐るべき命令が出されて市民が犠牲となった。 恐怖で逃げ始めた市民 大戦末期の1945年(昭和20年)7月14日午前から15日午後にかけて、洋上の米空母13隻から飛び立った艦載機2000機が北海道の根室から岩手県の釜石まで各地の港湾や飛行場を攻撃。 青函航路を擁する輸送拠点の青森市では、船舶・港湾・鉄道施設が狙われた。青函連絡船は沖合の船を含めて10隻が沈没、2隻が損傷して輸送が断ち切られたのである。 目の前で起きた空爆に、青森市民は震えあがった。