晩夏に広島で講演をする機会をいただき、平和公園を久しぶりに訪ねた。その地で、脳裏によぎったのは、2年前のオバマ前大統領の広島訪問の「奇妙さ」だ。オバマ演説のなかでは、誰が原爆投下をしたのか、その主体は曖昧化された。日本側は、その主体であるアメリカに謝罪を一切求めず、戦後の日米蜜月がひたすらアピールされた。 この式典を貫いた奇妙さは拙著「国体論――菊と星条旗」(集英社新書)で述べた「戦後の国体」という視角から見てみると、鮮烈な意味を帯びてくる。 国体とは何か。戦前においては、言うまでもなく天皇制ファシズム体制の基礎であった。しかし、敗戦後、アメリカは脱ファッショ化を図る一方、天皇制を維持・利用しながら占領を行った。その結果生み出されたのは、象徴天皇制のみではない。従来の天皇制の構造はそのままに、天皇に代わってアメリカが君臨するという「戦後の国体」と呼ぶべき体制が生み出された。 これはアメリカ