ブックマーク / akarinomori.hatenablog.com (19)

  • おとなだまし - あかりの森's blog

    こどもと遊ぶのであれば、やはり、こども以上に賢くなくてはならない、とつくづく思い知ります。こどもだましという言葉がありますが、こどもは底抜けに純粋なだけで、馬鹿なわけではありません。むしろ、大人などよりはるかに賢いのです。 こどもは、どんな相手でも一列にして眺めます。肩書があろうがなかろうが、その人にハンデがあろうがなかろうが、お金を持っていようが持ってなかろうが、あっちの人に「おはよう」を言って、こっちの人には「おはよう」を言わないという小賢しい事は考えません。この人に「おはよう」を言った方がいいのかな、とこどもが思ってしまっているのだとしたら、それは、彼の近くの大人が、必ず、人によって態度を変えるような仕草を彼に見せているのだと思います。近しい人の行動や言い方を、教えられる事なく模倣してしまえる才覚がこども全部には標準装備で生まれながらに備わっているのです。 こどもはすぐに相手を「見破

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  • 運命=不運←そんな方程式、いらなくないですか? - あかりの森's blog

    「それが運命の人なら、例え、貴方が引きこもってたって必ず出会う」。最初に就いた仕事場で、同性の先輩に頂いた言葉です。序列の確固たる部署でしたから、彼女は年下でしたが、先輩でした。思いやりの深い、とても利発な方でした。面倒見も良く、決して相手をないがしろにしない頭の回転が速い人ですが、時々、とんと的外れの事も真面目な顔をしてやらかしてしまうので、緊張感が漂う場にも柔らかい笑いを連れて来る存在でした。 運命と言うものが、私達の人生にきっと訪れるモノであるのだとしたら私達が明日を目指している限り、容易に振り払えるものではないかも知れません。けれども、その運命とやらが「不運」と絶対に言い切れるものではないはずです。幸運を願って希望を結ぶのですが、たまたま踏み外した先が不運という形であるに過ぎないのです。性に合わない人が上司だった時もそう、不得意な仕事を振られて苦しんでいる時だってそう、私達は何とか

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  • 背中の厚みは父譲り。 - あかりの森's blog

    「今週末、長男の学習発表会があるんですが、どうしますか?」「どこであるの?」「学校の体育館です」「何時から?」「〇〇時から30分程みたいですけど」「分かった、行くわ」「ちなみに車も自転車も駄目ですからね、徒歩限定です」「入校許可書は必要?」「受付に記名すれば大丈夫みたいです」「オッケー」。 子供がいると、彼等に絡んだ特別な日が折々にあります。保護者の観覧が可能な行事は、今でも夫婦そろって出掛ける事が多いです。別居していながら、不思議な感じもしますが、互いのスケジュールを確認して、現地で待ち合わせの後、同行します。横並びで観覧する事もありますし、会場が体育館のような広い場所であれば、館内の端と端で見物している事もあります。運動会の様な一大イベントでは、校庭の隅と隅でかなり離れて息子に声援を送っていました。我が家は、既に「こういうもの」として出来上がっているので、息子からは何の注文も付きません

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  • 「点」を置く。 - あかりの森's blog

    「あるがまま」を受け入れ、現状へ自分の感情を馴染ませるのに、随分時間がかかりました。まだ不安定で、核の部分も落ち着かず、出来たての小惑星のように私は今でもグツグツと揺らぎ動いています。 二人の幼子を連れて、家を出る決意をしたのが去年の十月でした。独り親になる覚悟が出来ていたのではなく、その時点ではただただやり場のない想いを解き放ちたくてカッとなっていただけでした。混乱する自分の気持ちをなだめる為、何をすれば良いか、全く想像もつきませんでした。ともすれば堪らない焦燥感に引きずられ、叫び出しそうになる心をどうすればいなす事が出来るのか、分からずに泣いていました。ひたすら親に従うしか選択肢がなかった息子達は、情緒不安定に怒ったり涙したりする私を見上げて、さぞ悲しかった事だったろうと申し訳なく思っています。 主人とは、やはり住む世界が違ったのでした。子を成し、一時でも同じ暮らしの中で一つの道を手を

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  • 形無きものの作法らしきもの - あかりの森's blog

    1000文字という枠で自分の中に浮かんだ事象について書いています。やり始めたのはここ最近。これが少し楽しくなってまいりました。旅行記を記すには制限を外しますが、日々の雑記はこれが今のところしっくりはまる気がしています。 1000文字は原稿用紙(400字詰め)2枚半。随筆を書き始めるとつい長文になってしまい、冒頭と末尾のい違いに自分自身が気持ち悪くなってしまう事があります。規制を掛けるのはそれの防止。誰に見せる物でもない為、ダラダラと書き進めていくのが相応しいのでしょうけれども私の場合は書き進む内にも中だるみするようです。 私はとてもおしゃべりな方ですから、話の内容には引用や尾鰭を付けたくなります。家族の事、子供の事、身の周りの事に関しては特に記録の意味も込めて出来る限り書き残して置きたくなります。という具合ですから、話は長くなり、まとまりが無くなり、のんべんだらりと末広がりに仕上がります

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  • 「ぱれ部」活動日誌(『あかりの森’s bog』課外活動報告記):目黒から代官山へ - あかりの森's blog

    目黒の『雅叙園東京』へ出掛けました。最寄り駅から新宿経由で山手線目黒駅下車です。東京に嫁に来て幾年か経ちましたが、東京は大都会ながらもあちこち至る所に坂道が組み込まれているのを何度経験しても私は新鮮に感じてしまいます。実際に我が家があるのも郊外ではありますが(最寄り駅から見れば)坂の上です。雅叙園が位置しているのも、目黒駅からグンと下った坂の果てです。駅とホテルとの高低差は軽くビルの3階分はあるのではないでしょうか。 日の東京は薄曇りの蒸し暑い夏日でありました。電車から下車して前のめりになりそうな下り坂を降りると、広い車止めを抱えた立派なエントランスが見えてまいりました。建物の内部はホテルと言うよりも、美術館を模したアミューズメントパークのように華やかな物でした。爪先を包む毛足の長い絨毯はお決まりとして、高い天井と、中華風の様な日風の様などこかオリエンタルな印象のあるホテル内は、外界と

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  • 若木の森’s blog記事 - あかりの森's blog

    トンビは鷹を、時々生みます。瓜のツルにも、たまにナスビは成るようです。 自慢と言うにはいくらか覚束ない事実なのですが、長男・次男といる内で我が家の長男の「優男ぶり」はちょっと実母ながら眉唾である念が拭えません。「可愛いねえ」「かっこいいねえ」は赤ちゃんに対する褒め言葉の常套としても、生後3ヶ月にしてすでに「イケメンですね」と会う人ごとに言われてきた長男は、どんな隔世遺伝を経ればそうなるのかという生命の神秘を体現している男子なのでありました。「申し訳ありません、お宅のお子さんは、当医院で取り違えられておりました」と、お世話になった産婦人科の先生に土下座されたとしても、「ですよねー」と指さして一緒に笑ってしまうかも知れません。くっきりとした二重まぶた、通った鼻筋、少し緊張気味に引き締まった唇。いったい、お前は誰の子。 ↑この人がいわゆる長男氏。 目を転じて、次男を見ればこれがまたものすごい安定

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  • せーので言うよ、やってみよう! - あかりの森's blog

    歌謡曲にはいくつものジャンルがありますが、ラブソングとかクリスマスソングとかムード重視の物よりも、5歳児長男にはやはり「元気ソング」がお誂え向きです。彼の情報収集場所は保育園で、運動会の競技でBGMに流れていたり、発表会のダンスミュージックであったりして耳馴染みになったのが気に入るようです。 男性ミュージックグループWANIMAが歌う『やってみよう』が、今の長男のテーマソングです。電話会社auのCMに起用され、知名度が爆発的に高くなったグループですね。元々は「おかーを、こーえー、ゆこーよー~」から始まる『ピクニック』で、私の母世代には実にメジャーな童謡です。私自身も「どこかで聞いた事、あるよね」という世代です。CMソングとしてテレビから流れて来た折には「懐かしいなあ」と目を細めた物でしたが、勿論、平成24年生まれの長男には初耳のメロディーであったでしょうし、歌詞だとてWANIMAの物で定着

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  • 堕落論(耽美主義をひとかじり) - あかりの森's blog

    全部を受け入れてくれる相手からは、きっと人は離れられなくなると思います。どんな容姿であっても、どんな願望を持っていても、どんな性癖であったとしても、そのどれをも無条件で肯定してくれる相手が現れたとしたら、同性であろうと異性であろうと年齢差があろうと、犯罪者であろうと、生者であろうと死者であろうと、盲目的に溺れてしまうと思います。 しばらく立ち寄る機会もなかった屋なのですが、仕事帰りに覗いてみる事にしました。ずっと以前に通りすがって、平積みされていたの群れの中に気になった一冊があり、まだそのが売られていれば購入しようと思ったからでした。最初に見かけてから日が経っていましたので、新着コーナーの平積みから、書棚の方へと移されておりましたが、幸いにも件のは買えました。それと同時に、冷やかすつもりで店内をうろついて手に入れた別の書籍も買う事にしました。 手に入れるつもりも無かったその書籍は、

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  • 雨、降りやまぬ羅生門 - あかりの森's blog

    《「きっと、そうか」 老婆の話が完(おわ)ると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰(にきび)から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛み付くようにこう云った。 「では、己(おれ)が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死をする体なのだ」 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く屍骸の上へ蹴倒した。梯子の口まで、僅(わずか)に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色(ひわだいろ)の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。》 芥川龍之介の『羅生門』、クライマックスの場面です。 中学生の頃でしたか、国語の教科書に掲載されていました。時が経ち、手元に新潮文庫の文庫で持っているのですが、今、読んでもここはゾクゾクします。災害続きの京の都で、職を失って路頭に迷

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  • 夏の夜の思い出便り - あかりの森's blog

    闇の中に光る蛍。父に連れられ初めてみたその光は黒い画用紙に開けられた画鋲の穴のように、あるかなきかの微かな青白い点でありました。丁度、苗代に稲が育ち、水を満たした田んぼへ明日にも植え付けが始まろうとする頃。梅雨入り前の晴天が続いた、こんな蒸し暑い日です。夜になってもまだ昼間の火照りが残っているような、ゆっくりと月が雲に隠れるような風が止んだ闇夜。密度のあるつやつやとした暗がりの中で、一つ、二つ、呼吸を繰り返す蒼い光。今の我が家の5歳の長男と同じくらいでありましたか、幼かった私は2歳違いの弟とともに、相手の顔さえ見えない黒々とした世界に漂い、額にうっすら汗をにじませながら、彷徨う蛍火を一心に見つめておりました。 またツルツルと滑らかな鮎の身体から、夏野菜の香りがすると知ったのも初夏の頃でしたでしょうか。まだ父方の祖父母も存命の頃です。私の実家は、祖父母が亡くなってから立て替えた物で、老いた祖

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  • ははははペダリング。 - あかりの森's blog

    坂の上の地区に住んでいますので、最寄りの駅に向かうには高低差がかなりある急坂を下ります。自転車のブレーキを構えて一気に下る直前、大きく開けた視界には、深い青に彩られた富士山の夏の勇姿が遠望出来ます。清らかな流れに飛び込む寸前のような、一瞬時間が静止するあの感じ。胸一杯に朝の空気を吸い込んで、見えない翼を広げる自分は、美しい富士山の残像を心に留めたまま、駅への坂を滑り降りるのでした。 心躍らされるものは、至る所に落ちています。ただ、一歩外に踏み出すだけで私は何かの物語の中に紛れ込みます。自分は別にそこの主人公ではないけれども、ワクワクとした楽しい空気はちゃんと私の背筋も伸ばしてくれるんです。 働きに出て思う事は、私はどんなに失敗してもどんな風に落ち込む日があっても、きっと「外側の人」なんだな、という事です。人様に自慢出来る半生を歩んで来た訳ではありません。取り立てて自慢出来る実績も有りません

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  • 椀の幸 - あかりの森's blog

    毎日、我が家は味噌汁が出ます。炊事は100%私の担当なので(主人が主張する「俺だってやろうと思えば出来るんだ。しかし、何もかも俺がしてしまうとお前(私)がそれに胡坐をかいて甘えてしまうからあえて俺は手を貸さないんだ」という内容。夫婦喧嘩の度に、グーパンチしてやろうと思うんですが、何なんですかね)、100%、私が卓に出します。共働きで、外勤であるので、朝か晩のどちらかあるいは両方に味噌汁が登場するのですが、自分の家庭を築いてからずっとその味噌汁に使用する味噌を探しています。 関西で育った私は、白味噌文化の中で育ちました。出汁はカツオでなく、出身の大阪泉州地方は「いりこ」つまり煮干しを使います。カツオに比べるとうんと淡泊で、磯の風味が僅かにする控えめな出汁になります。今は大手スーパーのティーバッグ式粉末イリコが便利な為、ストックは常に切らさない状態。事作りはこれがないと始まりません。イリコ

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  • たぐいまれ - あかりの森's blog

    一人で決断して どこかへ向かって歩いて行くのは 寂しくもあり不安でもある。 孤独になりたくなくて 大勢の輪の中にたたずんで 両隣の人に満遍なく笑いかけ、 タイミングを見計らって相槌を打ち、 適度な質問で話題を広げる等する。 一人ではない自分に安心し 同時に一人で何でもこなせる人へ嫉妬する。 当の私はここにはいないんだ。 呪文のようにそんな事を唱えながら それでもやっぱり「大勢の中の私」を やめられないでいる。 ここで話題を途絶えさせたらいけない、 この表情は相手の気に障らないかしら、 張り詰めた自分が どうしたらそれらしく自然に見えるのか。 だけれども、 憧れるのは 一人で軽やかにくしゃみをしたり 咳払いをしたり 帽子をかぶり直したり 窓を開けたりする「孤独な自分」なんだよね。 怖くない事に確信を持っている自分。 一人でいる事に安心している自分。 なれるものならなりたい。 だけれど、 成

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  • 「これくらい」の器に。 - あかりの森's blog

    何という事はない。 器が大きいとか小さいとか それを推し測る計量カップが 器に対して大きいとか小さいとか その程度の話だ。 もっと問われていいのは 自分に嘘を吐かないか、だとか 今日も相手に親切だったか、だとか そういう計量できない物事への 自分のあり方だと思う。 毒々しくある必要はないけれど いつも誰にでも有益でいる必要もない。 無難である事は恥ずかしい事じゃないし なんならちょっと失敗したな、なんて事が あっても良い。 先に進もうとする気持ちは持った方がいいけれど 向上心に踏んづけられているんじゃあ 毎日、息が切れて仕方ありません。 サイズオーバーの流行りの服より シンプルでオーソドクスだけれど 仕立て良く、ちゃんと身の丈の 清潔なシャツを着ていたいですよね。 だからと言って 隣の人と 時々、シャツの着心地の良さを話し合うくらいは構わないけれど 裏地に付いたタグの色や わずかなアイロン

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  • 苺の誉 - あかりの森's blog

    幸福な香りだなと思う。 誰に教えられた訳でもないのに。 熟れた苺の香りを嗅ぐと ふふふっと目を細めたくなってしまう。 手づかみで洗い立ての苺を頬張る君は 丸い指先で紅い果肉を握り締め ふっくらした唇に 次々詰め込む、一つ、二つ、三つ。 ふふふ。 ふふふ。 苺の香り。 君の頭のてっぺんも。 少し冷たい鼻先も。 不器用な両手も。 その漏れ出でる吐息も。 ふふふ。 苺の匂う 卓が、今。

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  • 〇とか△とか。 - あかりの森's blog

    〇だと思っていた事が ある人には△で △だと思っていた事が ある人には〇で、 でも実はそんな程度の事は 大した問題ではなくて 〇である事も △である事も 受け入れるかどうかがとても大事で 〇であっても △であっても 同じ熱量で 同じ真剣さで 同じ気楽さで 同じ平等さで 認められるかどうかが 当はもっと考えられるべきなんじゃないかな。 正しいか正しくないかの前に 自分の秤の針が どっちかに振り切れてないかが ずっともっと確かめられて当然の事のような 気がするんですよね。

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  • まるを書く。 - あかりの森's blog

    必ずそうなんだよね。 ユーモアを失くしている時の自分は もういろんな角度からも 自分として立っていられなくなってるんだよね。 これいいな、と思っていた事の つまらない上げ足を取りたくなったり そうあるべき、と信じていた事の 有りもしない影を憎んだり。 一番悪いのは 相手の言葉がどうであれ、 自分を必要としてくれている人がどうであれ、 もう、自分自身を用済みのように結論付けてしまう事なんだよね。 立派な人は立派な人であるだけで 厳かな人は厳かな人であるだけで 何もこちらを攻撃しようとしているわけではないというのに。 そのくせ 姿勢を低くして、 上目遣いに、 卑屈な溜息を吐いて、 両手を後ろに回して いいえ、私なんてとてもとても、と 薄ら笑いを浮べながら、 当はあちらこちらから引く手あまたになる事を あさましく期待している。 自分に都合の良い事を考え始めたら、 一度立ち止まってみた方が良いん

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  • はるの小道に。 - あかりの森's blog

    さくらの季節だから 思うわけじゃなくて 何かを遠く見送るたびに 私の胸に浮かぶ事。 振り返らない貴方の背中を 見続けてきたから思う事なのかしら。 見届ける事に慣れて来たから 実感する事なのかしら。 大きな貴方の背中も 思い出の一部に収まって いつか私が、 真っ白い桐箱として 両手に抱き締める日が来たら 私はやっぱり 今日のさくらを しみじみと懐かしく 思い出すのかしら。 貴方と子供と春日を浴びて歩いた野道で 偶然見つけた小さい花。 そのいたいけな青い花の色を 慰めのようによみがえらせるのかしら。 泣きたいのではなくて 嘆きたいのではなくて まして労わって欲しいわけでもなくて 静かに俯いていたい時、 貴方はやっぱり 振り返らない背中を見せたまま このさくらの風景の中で 私を励ますのかしら。 やがて、私は 幸福の光の中で あるかなきかの粒になって 零れ落ちて 吸い込まれて ぼやぼやと薄らいで

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