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  • わたしはあなたに愛されることを諦める――『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』感想

    自己犠牲は、基的には人間にしかできないのだという。そもそも、あらゆる生物にとって、コストを切ることはそれを埋め合わせる見返りの期待があって初めて可能になるもので(レミングの集団自殺のエピソードに見られる「種の保存」というおはなしは、まったくのデタラメである)、その期待がないにもかかわらず何かを差し出すという人間の行為には、それがあまりにも特異だからこそ、「純粋な利他行動」だとか「無償の献身」として、ときに尊厳という価値までもが見出されることになるのだろう。 しかしながら、純粋な利他行動が人間に特有の行為だということは、その純粋な利他行動が全ての人間にとって可能であるということを意味してはいない。裏を返せばそれは単に「潜在的に可能である」というただそれだけの話であって、実現するかどうかとはまた別の事態である。 もしそんなことがいつでもどこでもできてしまう人物がいたとすれば、その人は、神か、

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  • 『ニセコイ』論のためのメモ――二種類の"true end"をめぐる問題

    最近、『ニセコイ』についてよく考えている。 ジャンプにおいて長期連載されたハーレムラブコメと言えば、これの前なら『ToLoveる』だし、さらにその前なら『いちご100%』になると思うのだけど、『ニセコイ』は、前者の「コメ」成分と、後者の「ラブ」成分をうまく取り込んでしまったことによって、なんだか複雑な問題を抱えてしまっているのではないだろうか。 まず、『いちご100%』について。 この作品のラストに不満を覚えた人が少なくないということは、身近な知り合いとネットの反応、両方から感じられる。すなわち、真中が東城でなく、西野と結ばれたという結末である。なぜこれに不満が噴出するかといえば、作品を読めば明らかなように(Wikiのあらすじ参照)、東城こそがこの物語の"true end"だったからだ。もっと言えば、西野は真中に"true end"だと「誤認」されることによって知り合い、(真中にとっては偽

    『ニセコイ』論のためのメモ――二種類の"true end"をめぐる問題
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