聖書学というのは今世紀に入ってとても不思議なものになった。 普通の人は聖書学なんてクリスチャンがするものだと思っているだろうし、信仰のたしにならない聖書学など無意味という話にもなるだろうし、日本の世間もそう思うだろう。 しかし、聖書学の中に入るには、ある種の、ものすごい決意が必要になると思う。いや、必要でもないのか。聖書学は聖書をずたずたにする。それに耐えられる信仰というのはなんだろうかというのを神学的に問わなくてはならない。ブルトマンなどがとりあえず防波堤を作ったものの、その本質は難しい。トロクメやイェレミアスなどは古典的過ぎる(と思う)。 聖書学は神学から生まれたものではなく、近代合理主義というか、市民革命的なエートスというか、神の子を偉人という歴史にモルドする情念から派生したのだろう。ルナンのあれだ。そして、その帰結はある意味でシュバイツァーであり、また彼の人生でもあった。あれが大き