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ブックマーク / 1000ya.isis.ne.jp (4)

  • 松岡正剛の千夜千冊

    先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。 ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。 それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、

    松岡正剛の千夜千冊
  • 1109 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    今夜はあまり考えないで、思いつくままに書くことにしたい。そんな気分だ。いまのところ十文字美信はぼくが最も信頼する写真家である。いまのところというより、この20年来というふうにいったほうがいいだろう。なにより最初にそのことを言っておきたい。理由はいくつもあるが、ひとまず次の3シーンに語ってもらう。 一つ、光琳の『扇面貼交手箱』(せんめんはりまぜてばこ)を撮ってもらったとき、下地に微粉状にした海苔や茶の葉をびっしり敷いた。そのテストを何日もかけて、寸分違わずその通りの写真を番で仕上げた。二つ、十文字が麻布暗闇坂近くに事務所を構えたとき、招かれてエレベーターでその事務所の階に上がって扉が開いたとたん、分厚い衝立がどーんと造作されていた。その風情に気迫があった。三つ、立体カメラを自作してその試作を完成させたとき、最初に見せてくれた如意輪観音の膝がエロティックだった。あんな如意輪観音を見たことがな

    1109 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
  • 0987 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    若き日の白川さんは読書をして一生を送り切りたいと決断した人である。その読書も「猶ほ浅きを嫌ふ」という覚悟で臨んだ。そして、それを成し遂げた。 その白川さんについて、ナムジュン・パイク(白南準)は「日の人は白川静を読まなくてはダメよ」とぼくに言っていた。当時、世界のビデオアートの先頭を切っていたパイクは、『遊』創刊号にいちはやくエールをおくってくれた人である。 そのころ日のアーティストはおろか、知識人でも白川静を読んでいる者など、ほとんどいなかった。白川静をもちだして話に乗ってきてくれたのは、ぼくの周辺では武田泰淳・中野美代子・杉浦康平くらいだったろうか。いま、ぼくの手元には、その武田泰淳の赤坂書庫からせしめた『漢字』初版が残っている。赤鉛筆と青鉛筆の泰淳マーキングがついていて、懐かしい。 ナムジュン・パイクが白川静を読むべきだと言ったのが、さて、何年のことだったかは、はっきりしない。1

    0987 夜 | 松岡正剛の千夜千冊
  • 1388 夜 | 松岡正剛の千夜千冊

    グローバリゼーションが過剰になりすぎたいま、 世界は反転しようとしているのだろうか。 ではどこに、どのように反転がおこるべきなのか。 書はアンソニー・ギデンズの「第三の道」と、 ネグリ=ハートの「マルチチュード」を両眼視して、 そこにプルードン風のアナキズムの再来を嗅ぎとった。 著者は現在34歳の俊英である。 1998年のWTO閣僚会議で、ビル・クリントンは「グローバリゼーションとは政策的な選択のことではない。それは現実なのだ」と述べた。その翌年のシアトルのWTO閣僚会議には、市場原理主義の侵攻に対する「反グローバリズム」の市民デモが押し寄せた。 田中宇(667夜)によれば、グローバリゼーション(globalization)という言葉が欧米の新聞に登場したのは1983年以降のことだという。ジェラード・デランティは、社会学用語としてグローバリゼーションが使われたのは1966年の「アメリカ

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