前回、脳と身体の乖離ということを書いたけれど、この二元論をあまり実体的に捉えてはならない。 脳といえどもリアルな臓器であり、身体は身体で自前で考える回路を持っているからである。 酸欠になれば脳の思考は混濁するし、点滴を打つと数学の問題がすらすら解けたりする。 同じように、身体も好調を維持していると適切な選択を無意識のうちに行うが、バランスが崩れたり、緊張やこわばりがあると間違った推論をすることがある。 脳を中心に生きるか、身体に軸足を置いて生きるかというのは二元論的な問いのように見えるけれど、このような問いを発し、それに適切な回答を処したりするのは実は脳がひとりでやっているのである。 つまり脳という臓器は「脳を中心に生きるか、脳の関与をすこし抑制するか」という脱自的な判断ができるのである。 「身体」というのは脳がつくりだした「脳の自己中心性を抑制するサブシステム」のことである。 「あまり考
ふとした縁があって、「ゼロの使い魔」という小説を読んだ。 「ゼロの使い魔」はライトノベルだ。ぼくはライトノベルのことについてそれほど詳しくないのだが、この「ゼロの使い魔」はすごく正統的なライトノベルだと思った。非常にオーセンティックな、ライトノベルの鑑のような作品だと思った。その通り、この作品はとても人気があるようで、物語はシリーズ化され、2004年の第1巻刊行以来、すでに13巻が出されている。また、アニメやコミック、ゲームになるなど、他メディアへも大きな広がりを見せている。ぼくが読んだのは、そのムーブメントの端緒となった、2004年に刊行された第1巻だ。これを読んで、ぼくは色々な感想を抱いた。また、この作品を通して、「ライトノベル」というジャンルそのものにも、ある感慨を抱いた。そこでここでは、そんな「ゼロの使い魔」を読んで思ったことや、それを通して抱いたライトノベルというジャンルについて
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く