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ドラゴンボールに関するhiroyukiokanoのブックマーク (5)

  • ドラゴンボールのヤムチャが、ザコとしての地位を確立できた理由 | マンバ通信

    ドラゴンボールのヤムチャは、ザコキャラとしての地位を確立している。 そんなもん確立してどうすんだ、という意見はもっともである。ザコとして有名になってどうするのか。そんな名前の売り方があるか。しかし、ザコの代名詞になるのも立派なことなのである。多くのキャラクターは記憶にも残らずに忘れられていくのだから。 この記事では、ヤムチャが有名なザコであるということを前提に進めるが、いちおう証拠をあげておく。しばらく前にヤムチャのフィギュアが発売された。サイバイマン戦で敗北した直後、地面に横たわるヤムチャをフィギュア化したものである。 こんなフィギュアは、ザコとしての地位を確立していない人間には絶対に出せない。いちばんみじめな姿を商品化されること。そこにカネを取れるだけの需要まで生まれていること。これはザコキャラにとっての「あがり」である。中途半端なザコには、とても真似できない。 ということで題に入る

    ドラゴンボールのヤムチャが、ザコとしての地位を確立できた理由 | マンバ通信
  • 孫悟空とは何者だったのか? | マンバ通信

    ベジータについて書きはじめた時、孫悟空は空白だと書いた。その意味を考察しなければならない。「空白」とはどういうことなのか。孫悟空という男は、いったい他の人間となにが違っているのか。孫悟空とは何者だったのか。 孫悟空について考えるには、「この男には何があるのか」ではなく、「この男には何がないのか」を見たほうがいいと私は考える。普通の人間がもつ色々なものが悟空には欠けており、その欠落こそが悟空という男の個性を形作っているからだ。 (悟空とは何者なのか。『ドラゴンボール』35巻3ページ) 悟空には「帰属意識」がない ベジータは悟空に、「サイヤ人の生き残り」としての同胞意識を持っている。ピッコロが神と融合してすさまじい力を得た時、ベジータは心のなかで悟空に語りかける。 「どいつもこいつも…!! 宇宙一の超サイヤ人をあっさり出し抜きやがって…!! アタマにくるぜ…!! なあカカロット…」 非常にベジ

    孫悟空とは何者だったのか? | マンバ通信
  • そしてベジータは大人になった | マンバ通信

    上田啓太さんによる、大人気シリーズ “『ドラゴンボール』に登場するベジータについての考察” 後編。これまでの考察については「前編」「中編」をどうぞ。 ベジータに関する話の後編である。 前編では、残忍な男として登場し、あらゆる命をゴミのように扱う初期ベジータを見た。そして中編では、悟空に敗北したことで劣等感をかかえ苦悩するベジータを見た。 今回は、作中最後のシリーズである魔人ブウ編を見ていく。前編と中編で提示したベジータの問題、すなわち残忍性と悟空へのコンプレックスは、ふたつの有名なセリフとして結実する。 「トランクス、ブルマを、ママを大切にしろよ」 「がんばれカカロット、おまえがナンバーワンだ」 どちらも名場面として語られることが多い。ベジータという男が葛藤の果てに辿りついた場所だからだろう。しかしまあ、あせる必要はない。まずは魔人ブウ編におけるベジータをゆっくり見ていくことにしよう。 ベ

    そしてベジータは大人になった | マンバ通信
  • 劣等感は切ない ベジータの孫悟空コンプレックスについて | マンバ通信

    上田啓太さんによる、大人気シリーズ “『ドラゴンボール』に登場するベジータについての考察” 中編です。(まずは「前編」をどうぞ。) 悟空とベジータは永遠のライバル。なんとなく、そんなふうに思われている。しかし私はこれほどアンバランスな関係をライバルと呼んでいいのかわからない。当にこの二人をライバルと言っていいんだろうか? 要するに、ベジータが悟空を思うほどには、悟空はベジータのことを思ってないんだが、それでも二人は「ライバル」なのか? そこにあるのは「互いに刺激しあう二人の男」なんてものじゃなく、「勝手に強くなっていく悟空と、それを見てジタバタするベジータ」なんだが、そんなものが「ライバル」なのか? 悟空とベジータの関係を象徴するセリフ。(『ドラゴンボール』33巻p.92より) ありもしない悟空の内面を読んでしまうベジータ 初登場時、ベジータは悟空より強かったと言っていい。最後は敗北する

    劣等感は切ない ベジータの孫悟空コンプレックスについて | マンバ通信
  • 残忍だった頃のベジータの圧倒的キャラ立ちについて | マンバ通信

    ベジータについてならばいくらでも書ける。そんな確信がある。 孫悟空については書けない。孫悟空は空白だからである。内面がないからである。無について何かを書くことはできない。しかしベジータについては書ける。ベジータほど作中において変化していった人間はいないからだ。その変化を追っていくだけで文章は生まれる。 (『ドラゴンボール』22巻p.131より) 我々はベジータのことを何だと思っているか? 妙なハゲ方をしたサイヤ人だろうか? そうかもしれない。しかし今は髪型にはふれない。私が考えるのはベジータという男の内面である。そのためにベジータを前期・中期・後期に分ける。 それはベジータが「人間性」を獲得していく過程である。しかし焦るのはよそう。とりあえず今回の記事では前期だけを扱う。作中でいえばサイヤ人編における初登場からフリーザ編中盤あたりまでのベジータ。この時期のベジータには一切の「人間性」がない

    残忍だった頃のベジータの圧倒的キャラ立ちについて | マンバ通信
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