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  • 錯覚や幻覚も立派な認識である : ITスペシャリストが語る芸術

    9月1 錯覚や幻覚も立派な認識である Tweet カテゴリ:芸術・哲学・神秘思想社会・教育 一瞬見た奇妙なものを錯覚、それよりは長いが、やはり、あり得ないものを幻覚と言うのだが、いずれにしろ、それらは否定され、見なかったも同然の扱いを受ける。 だが、人は感覚器官のみで認識する機械のようなものではない。 感覚器官が捉えた光や音の波動を、意識が再構築して認識するのだ。 錯覚や幻覚も、立派な認識であり、まぎれもない現実なのである。 言い換えれば、あらゆる認識が錯覚であり幻覚なのだと言えるのである。 夢は幻のようなものと思われている。 だが、一切は幻である。 幻は立派な現実なのである。 そして、幻でない現実はないし、現実でない幻もないのだ。 だから、夢は現実であり、現実は夢なのである。 あるべ物をべて、美味しいと思った時、そのべ物が美味しいことを現実だと思う。 だが、しばらくして、そのべ物

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    hnder2001 2012/09/01
  • 危険がよけて通る不思議な人達の秘密 : ITスペシャリストが語る芸術

    5月19 危険がよけて通る不思議な人達の秘密 Tweet カテゴリ:芸術・哲学・神秘思想社会・教育 風説かもしれないが、日の戦国時代の武将の中には、鉄砲の弾が飛び交う戦場を、自分の運を信じて悠々と歩いてみせた者がいるらしい。何かのドラマで、秀吉がそんなことをやっていたような気もする。 だが、合氣道家の藤平光一さんは、第2次世界大戦で、部隊を率いる指揮官だった時、そんなことをしたことを著書に書かれている。氣を出していれば、弾も当たらないといった話だったと思う。 「心身神医学の父」と呼ばれるドイツ人医師、ゲオルグ・グロデックの論文によれば、戦場である兵隊が、仲間の兵隊に、自分の脚の一部を指差しながら、「ここに弾が当たれば、俺は故郷に帰れるのだがなあ」と言った直後、流れ弾がまさにその場所に当たったという。 グロデックによれば、これは、人の内に存在する、エスというものの仕業である。 エスは精神分

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    hnder2001 2012/05/20
  • 好き勝手をやりながら生きていく方法 : ITスペシャリストが語る芸術

    9月24 好き勝手をやりながら生きていく方法 Tweet カテゴリ:芸術・哲学・神秘思想社会・教育の昔の小話に、ごろごろして働かない若者を、年配の男が叱責するところから始まるものがある。 若者が、「働いたらどうなるのですか?」と尋ね、「豊かになって昼寝も出来るってものだ」と男が応えると、若者は、「今、その昼寝をしてるんですがね」と言うのである。 当然、この話には、次のような、若者への反論があるだろう。 「今、昼寝をして働かないと、将来はゆっくり昼寝など出来ない惨めなことになる」 イソップのアリとキリギリスの話に置き換えるまでもないことである。 しかし、当にそうだろうか? この怠け者の若者は、ずっと昼寝をし、あくせく働く者は、ずっとあくせくしているのではないだろうか。 丹波哲郎さんは、俳優になる前にサラリーマンをやったことがある。ただし、丹波さんは、、全く働かなかったそうだ。入社時に

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    hnder2001 2011/09/26
  • 憶えておくべきこの世の法則 : ITスペシャリストが語る芸術

    9月21 憶えておくべきこの世の法則 Tweet カテゴリ:芸術・哲学・神秘思想社会・教育 この世で、憶えておくべき法則は、与えれば与えられるということではないかと思う。 タゴールの詩に、ある貧しい女が神に逢う話がある。神が自分の方にやってくるのを見た女は、何をもらえるのだろうと期待するが、神は女に施しを求めた。女が慌てて、小さな米粒を渡すと、神はそれを受け取って去って行った。女が後で、持ち物を入れている袋の中を見ると、小さな黄金の米粒があった。与えたとおりに与えられたのだ。 アインシュタインは、収入の大半を、誰とでも分かち合ったという。お金を必要とする人がいて、自分が持っていたら、必ず与えてしまうのだ。お金が必要だという理由が明らかな嘘でも構わなかった。それでアインシュタインが後悔することはなく、いつでも心は晴れやかだった。 彼は、自分のためには大してお金は必要としていなかった。普通の人

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    hnder2001 2011/09/22
  • 「石の上にも3年」はどんな3年か : ITスペシャリストが語る芸術

    9月13 「石の上にも3年」はどんな3年か Tweet カテゴリ:芸術・哲学・神秘思想社会・教育 「石の上にも3年」と言うが、どんな3年をそう言うのか分かるだろうか? 「入社して3年はやめずに我慢する」という3年とは、全く適合しない。 また、何かを習い始めたら3年はやってみるというのとも違う。 これは、1日も休まず、決まった時間に決まったことをやるという3年である。 そうすれば、何事であれ、一応の力は付くのである。 「石の上にも3年」とは、達磨さんの座禅修行のことであると言われる。 まさか1日24時間ずっと座禅していた訳ではないだろうが、必ず決めた時刻に、決めただけの時間、1日も欠かさず3年ほどやったということだろう。無論、当時は時計などないのだが、いろいろ工夫したのだと思う。 3年といえば、こんな話がある。 アメリカの霊能力者エドガー・ケイシーは、9歳の時、キリスト教伝道師の話を聞いてす

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    hnder2001 2011/09/14
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