ブックマーク / darjeelingmama.hatenablog.com (2)

  • 私の昭和⑤ わたしには弟と妹がいます - ダージリンママ介護日記

    昭和46年頃かな。 弟とわたし。 伊豆箱根鉄道に沿って広がる田んぼ。 春になると一面にピンクの蓮華が咲きました。 レンゲが田んぼの栄養になっておいしいお米ができる、と母が教えてくれたっけ。 カメラ越しに私たちを見つめる、片頬にえくぼを刻んだ母の横顔が浮かびます。 おなかには、妹がいた頃かな。 数年後。 妹もいます。 シロツメ草の原っぱ。 弟の面差しに妹の息子を見つけました。 母はよく、私たちを近場に連れ出してくれました。 修善寺のサイクルスポーツセンターに行き、長女の私は財布を持たされ、 閉園時間に母が門の外に迎えに来たりしてました。 母の入場料は節約です。 仕事と家族7人のおさんどんの段取りをいつも考えていたことでしょう。 自分が母になって初めて、母の情熱と多忙を知りました。 約40年後の今、 私と弟はかろうじて交流あり。 私と妹は緊密。 弟と妹はほぼ交流なし。 死んだらまた父母に会える

    私の昭和⑤ わたしには弟と妹がいます - ダージリンママ介護日記
  • 私の昭和④ 夏みかんと塩むすび - ダージリンママ介護日記

    昭和42年(1967年)8月の或る日。 後列、父と2歳の私。 前列真ん中が父の父、私の祖父。 祖父の両脇は、たしか祖父のいとこの、お孫さん達。 静岡県沼津市の内浦湾にある三津海水浴場。 海水浴といえば三津でした。 駿河湾の中の内浦と言う湾にあり、波も小さく、水もきれいな場所。 一緒に住んでいたこの父方の祖父は、50代で脳卒中を起こし半身に麻痺が残りました。 子供だった私の頭には、 「おじいちゃんは、ノウイッケツで、チュウブウになった」と、刻まれました。 仕事ができなくなった祖父は、家まわりの雑用や、掃除、片付け、ゴミ燃やしなどをいつもセッセとしていました。 口うるさくて、我が強く、世話好きで、噂話が大好きな、働き者。 50代で息子の世話になることになった負い目があったのか。 商才も野心もある息子に、複雑な思いがあったのか。 とにかく、折り合いの悪い親子でした。 祖父の事を母が、 「一言居士

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