東京という都市における舞台芸術にかかわる〈公共〉はどうなっているのか?ここでは、私見を少々書かせていただきたいと思います。
![〈公共〉ということ―東京から](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/fc9cc8cff638b94cc7e9aba765c00c6316ede3b1/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fimg.huffingtonpost.com%2Fasset%2F5c63a30b360000fa0a6abde8.jpeg%3Fops%3D1200_630)
多数性と閉じ――『三人の女』(平倉圭) 舞台に4枚のスクリーンがある。客席は舞台上の下手にあり、上手のスクリーンと対面している。4枚のスクリーンは大きさと角度を変え、上手奥に向かって収縮する遠近法的な構図をつくる。中央奥に最小のスクリーン。その手前に16mmフィルム映写機。その上にワンピースの女性服が吊るされ、残照のような光で照らされている。残る3つの大スクリーンには、Panasonic製の高価なデジタルビデオプロジェクター3台が向かい合う。空間の両脇や各スクリーンの下に、ざっと見て13のスピーカーが設置されている。 空間に散らばる多数性は、中央奥の16mmフィルム映写を消失点として、遠近法的かつ象徴的に統合される。客席には遠近法的視野のもとに多数性を統合する主体が、16mmフィルムを焦点=消失点として立ち上がる。形式としてはそのように構成されるが、単純ではない。問題になるのは女たちの位置
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