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ブックマーク / yamtom.hatenablog.com (2)

  • 伊藤公雄氏のいう相互批判の「作法」とは? - ふぇみにすとの論考

    伊田広行氏が具体的な批判対象を曖昧にしたまま、批判を展開し議論していることの問題を前回のエントリーで書いた。そして、12/12付のmacska.orgエントリーにて、macska氏も同様の批判を展開している。 この批判対象を曖昧にする傾向が、伊田氏に限らず、最近ジェンダー研究系の人々の間で目立つように思う。 伊藤公雄氏の『インパクション』154号(2006年10月)掲載の論文、「ジェンダー・フリー・ポリティクスのただ中で」は、まさにこの典型例といえるだろう。 なぜ「ジェンダーフリー」という言葉を伊藤氏が使って来たかの説明が延々となされた文なのだが、妙に文章中に括弧が多用されていて、主張が見えづらく、言い訳めいた感じに見えてしまう文章だ。そして、その中に、ちょこちょこ具体的に誰のどんな主張を指しているのか明記されない形の批判が登場するのだ。例えば、東京女性財団やバーバラ・ヒューストンの「ジェ

    伊藤公雄氏のいう相互批判の「作法」とは? - ふぇみにすとの論考
  • 井上輝子氏脚注についてのmacska氏エントリーに関連しての考察 - ふぇみにすとの論考

    macskaさんが「『ジェンダー『『ジェンダーフリー』のつかわれ方」脚注に見る山口智美さんへの怨念」というエントリーを書かれている。これについて若干思うところを書いてみたい。 私も先日日で、この論文が所載されている『「ジェンダー」の危機を超える!」(青弓社)をちょうど買って来たところだからだ。 ここで問題になっている、井上輝子氏の論文の脚注部分だが、私が読んだ時の最初の反応は、「今になって、和製英語だとかそうではないとかいうところに議論を戻さないでもらいたい」というものだった。 おそらく井上氏は、私の『バックラッシュ!』での、マーティン&ヒューストン両氏のインタビューや、私自身の論文が出る前にこの原稿を書かれたのではないかと推測するが、、 ちなみに、『バックラッシュ!』の論文にて、私は以下のような脚注をつけている。 脚注3 言語に限ってのみ、gender-free languageとい

    井上輝子氏脚注についてのmacska氏エントリーに関連しての考察 - ふぇみにすとの論考
    i-okada
    i-okada 2006/09/16
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