qfwqに関するicchan0000のブックマーク (3)

  • 正直と親切――正義にあらがう(その2) - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    この夏、仕事の関係で戦争にかかわる大量の文献に目を通した。戦争とは昭和前期のいわゆる「十五年戦争」である。それらの文献はわたしの考え方、偏見、謬見に多かれ少なかれ変更を迫ることになった。よい機会を与えられたとおもう。ひとつ、つよく印象に残ったことを書いておきたい。大川周明が、自身所長を務める東亜経済調査局附属研究所、いわゆる「大川塾」*1の卒業生たちにむけておこなった訓辞である。東亜経済調査局は、もと満鉄の管轄下にあった調査機関で、のちに独立して附属研究所が設置された。大川周明は、旧制中学の卒業生を毎年二十名選抜して、二年間全寮制教育をおこない、仏印(ベトナム、ラオス、カンボジア)、インド、ビルマ等々へと送り出した。かれらは大川の唱える「大アジア主義」の実践部隊であったわけだが、大川は卒業式でこう述べたという。 「諸君の任務は、一面において各地の綿密なる調査研究を進めて日の亜細亜経綸に寄

    正直と親切――正義にあらがう(その2) - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
    icchan0000
    icchan0000 2010/08/17
    加藤典洋『敗戦後論』を巡って。“加藤典洋を批判する高橋哲哉は正しいが、「正しすぎる」ことは時には有害でありうる、というのがレヴィナスを援用した内田樹の立場である” @arimasakano ご興味あれば。
  • あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    1月27日、サリンジャーが死んだ。享年91。 村上春樹が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳したのが、つい2、3年前と思っていたが、もう7年前になる。このところ、わたしの身辺ではなぜか3〜4か月ぐらいで1年になる。デフレだかインフレだか知らないが、この傾向は年々加速している。いずれ1年前の出来事を昨日のことのように思いなすだろう。そして、昨日のことは……きれいさっぱり忘れている。はやくそんな日がこないものか。 なにか書こうという気にならないので「2、3年前」に雑誌に書いた文章を埃をはらって掲げておく。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の刊行にあわせて紹介記事のようなものを、という依頼で書いたものだ。紹介記事の文体になっているのがおかしい。野崎孝訳の文体を模倣して書いた戯文とあわせて1頁の記事。掲載時に誌面のスペースにあわせてやや短縮したが、ここではオリジナル原稿をアップする。掲載誌も昨年休

    あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
    icchan0000
    icchan0000 2010/03/07
    村上春樹訳キャッチャーについて。“おかしいのはね、僕の口癖の「Boy!」が「やれやれ!」になってたことだな。これってハルキの小説の登場人物の口癖だぜ!”そう!僕はそこが目に付いた瞬間、読む気が失せた。
  • 二月は残酷きわまる月だ - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    先週、近親者の葬儀で北陸へ行った。ところどころに残雪があった。東京へ戻ると、北陸に劣らぬ寒波に身も凍えた。 帰宅してパソコンをひらくと、近親の青年の急病を伝えるメールが届いていた。重篤の病で、それから二週間を経た今でも意識が戻らない。いつまでも醒めることのない気がかりな夢のなかにいるようだ。 今月四日に川崎彰彦が亡くなった、とインターネットで知った。二十代から愛読していた作家だった。小説集や随筆集もあるけれど、詩集をひもといて故人を偲ぼうと家じゅう捜したが、どこに仕舞いこんだのか見あたらない。川崎彰彦に『私の函館地図』という小さなエッセイ集があり、昔、書評紙に勤めていたころ、短い紹介記事を書いたことがある。調べると1976年の刊行だった。往事茫茫として霞の彼方なり。 最後の著書『ぼくの早稲田時代』は数年前に女性誌に紹介記事を書いた。読者はさぞ途惑ったことだろう。いずれ詩集を捜しだしてなにか

    二月は残酷きわまる月だ - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
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    icchan0000 2010/02/22
    “突然の訃報に接することになった。それも亡くなってから十か月も経った今頃に。人の世の無情をおもう。いや、世の中でなく無情はこのわたし自身である。”「駄文」との自嘲も切なさを増す。胸を撃つ哀悼の文章。
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