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ブックマーク / tokyocat.hatenadiary.jp (2)

  • 東京猫の散歩と昼寝 小説の人間原理 ~ 佐藤友哉「1000の小説とバックベアード」

    高橋源一郎のインタビュー(文藝06年夏号 聞き手=柴田元幸)に関して、もう少し。 インタビューの最後のほうで、高橋源一郎は、「近代文学あるいは小説が終った後には何が来るのか」という問いを発端にして、小説というジャンル自体への無条件の信頼を改めて表明している。 《小説というものは、言語芸術におけるいちばん新しい存在、ニューフェースですよね。だから、言語を使った、何か新しい芸術形式が生まれ、それが新しいジャンルとして成立し、みんないいということになって、小説がお役御免になっても、それはそれでいいんじゃないかというふうに思うんです。しかし、そのようなジャンルXの存在を僕は想像できません。なぜなら「小説」というものの最大の特徴は「人間」が、そこに登場することで、そして「小説」以上に「人間」というものを説明できる手段を我々は持っていないからです》 《…小説は、等身大の人間が出てきて何かを行なうという

    東京猫の散歩と昼寝 小説の人間原理 ~ 佐藤友哉「1000の小説とバックベアード」
    idi
    idi 2006/12/21
  • 高橋源一郎のボケとツッコミ - 東京永久観光

    高橋源一郎の小説。あれはつまりボケだ。正しいツッコミが誰にも思いつけない困ったボケ。それを目指してボケを徹底して磨き抜いたのかもしれない。ただ最近は、ボケをむしろ緩く鈍くすることでツッコミをよろよろと回避する大リーグボール3号のごとき戦略とも受けとれる。 では、高橋源一郎の評論(とされる文章)はどうか。たとえば『文学界』の連載「ニッポンの小説」。これまたボケが手を変え品を変え延々続く。いったいどうなるんだ、と思いきや、最後にはきっちりツッコミが入って落とし前がつく。さすが評論だ。(小説のボケはボケ自体によって落とし前はついているのだろうが) というわけで、当は、高橋小説のボケに対して、あるいは高橋評論のうちでもおそらく自身でもツッコミせず放っておいてあるボケ部分に対してこそ、ぜひツッコミたいのだが、それは非力で難しい。だから、高橋源一郎の自らのボケに対する自らのツッコミという、非常に限定

    高橋源一郎のボケとツッコミ - 東京永久観光
    idi
    idi 2006/12/10
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