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ブログということに関するiikotobakkaのブックマーク (40)

  • もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。: 極東ブログ

    ブログの運営のことでこれだけ悩んだのは久しぶり。いろいろ悩んだけどね。もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。ということにしました。 承認制というのは、コメントを書き込まれてもすぐには反映されないということです。私が判断して、これはないんじゃないかなというコメントはブログに反映しません。せっかく書いていただいたコメントも、私の承認がないかぎり、コメント欄に表示されないことになります。「死ね」と書かれたコメントは表示の承認をしません。みなさんからいただいたコメントを表示するかしないかは私が責任をもって決めます。 そして、もう一つ。ブログを持っているみなさんも、これから持とうとしているみなさんも、コメント欄を承認制にしたほうがいいですよ、とお勧めします。 「でも私の使っているブログじゃできません。はてなダイアリーにはそんな機能がないんです」という場合は、そんなブロ

  • 404 Blog Not Found:幸福を痛感する

    2007年06月15日02:15 カテゴリArt 幸福を痛感する これぞ、梅田節。 My Life Between Silicon Valley and Japan - 最近つくづく思うこと 現代に生きる幸福を痛感する。 そう。幸福は、痛感するものなのである。 la_causette: 「多少のコストを覚悟」させたら優秀な書き手は逃げてしまう結局、今の商用ブログ環境だと、匿名の陰に隠れて他人のブログのコメント欄でブログ主等を執拗に個人攻撃することを恥じ入ることがない人々や集団が事実上支配することとなり、彼らのの知的レベルにブログ界が長期的に収斂してしまうことが予想されるのであり、情報サービスとしては、メディアを飲み込むどころか、メディアに鼻で笑われるようなレベルのものにしかならなくなります。 痛感の欠如に痛感を禁じ得ない。 私も梅田さんも、コメント欄もTBもオープンにしている。私はsplo

    404 Blog Not Found:幸福を痛感する
  • 釣られる - finalventの日記

    ⇒ブロガーは自分のキモさとどう向き合っているの? | 住 太陽のブログ あなたが書いているそのブログがそこはかとなくキモいという点について、それをどうお考えですか? 自分のキモさとどう向き合っていますか? しかたないんじゃないかと思っている。 以前、コメント欄で攻撃を繰り返した人が、こんなもの書いていて、子孫が見たら恥ずかしいだろうと、私が中国人か韓国人かと勘違いしたような突撃を書かれたことがあったけど、私は、自分がこういう人間ならこういう人間でしかたないなとは思っている。 一応私はブログでは匿名ということになっている。ただ、身近な人は私を知っているし、私を知っている人は、私のブログで言いそうなことは知っている。 ただ、そうではない関係の人までこんなブログを読んでもらうのはどうかなという感じはするし、恥ずかしというか、キモイなオレという感じはある。でも、それも、しかたないなというのはある。

    釣られる - finalventの日記
  • うわぁーヘタこいたー!: あんたジャージでどこ行くの

    ヘタこかぬブロガーはつまらぬ。人に醜態をさらすこともまた、ブロガーの「仕事」の一つだと思う。 思えばずいぶん醜態をさらしてきたと思う。このブログは矛盾だらけである。 でもそんなの関係ねえ! と、しょうもない落ちはどうでも良い。 「ブロガーの価値」とは何だろうと思うのだけれど、結局それは「ブログという小窓を通して人生を覗き見させる存在」であって、少なくとも僕はそういうのがブロガーの価値なんだろうと考えているのです。 こういうの、何度も書いてるけど。 作家の仕事というのは恥部を晒すことだ、と言ったのは筒井康隆だったか。作家ほどの技術と発想を持たない素人にできるのは、それこそ恥部を晒すことくらいだと思う。

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    2024夏休み旅行 神戸・2日目【前編】 zfinchyan.hatenablog.com ↑1日目はこちら 6:50 わたしと夫だけ先に起床 前日に買っておいたお芋のパンで朝ごはん 昨日の疲れからか、なかなか息子たちが起きてこなかったので、ゆっくり寝かせてから10:00にホテルの下にあるプレイゾーンに行って、パターゴルフやバス…

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  • アイデアル・スタンプ・モンタージュ - 僕と君と明日のつづき

  • 読まれるという奇蹟 (セックスなんてくそくらえ)

    どんなブログにも、最初の読者というものはいる。 一日数千のアクセスが普通になってしまったブロガーにも、忘れがたい読者というものはいるだろう。私にとっても最初の読者というものがいたし、その人は忘れることのできない記憶としてある。 男が童貞を捨てた相手を忘れられないように--余談だが、女とは処女を捨てた相手をすぐに忘れることができる生き物だ--ブロガーにとって、最初にそのブログが読まれた体験、言葉が届いた体験というものは、忘れがたいものである。 エントリというものは文章がそこに置かれているだけで価値がでるものではない。例をあげれば、たとえばあなたの部屋には、読んでもいないが山となって積まれてはいないか。 そのはあなたが偶然手にとって読み、そこにあなたのために書かれた一文を発見したとき、初めて価値あるものとして光を放つのである。 読むということはそういうことではないか? それは一度限りのかけ

  • 今朝の増田 - finalventの日記

    増田anond:20070527012031 書きたいことはたくさんあるんだ。いつも頭からあふれている。言葉では追いつかない。 でもそれよりもネックなのは言語化した後にそれに説得力を持たせる文章力だ。それが欠けている。 するとエントリを書くのに臆病になってそのうち書かなくなってしまう。なんだろう、億劫ではなくて臆病なんだ。 きっと愚か者であると自らを認定するとはこういうときなのだろう。 言葉で追いつかせるくらい速く書けてば。 説得力とか他人のことなんか気にするなってば。 エントリなんか恥というかゴミというかどうでもいい。 臆病なんて克服できないし、臆病を克服した大人のズルムケ感というかあの、なんかこのおさかな2日前に死んでますけどみたいに座った目とか、そんなのになりたいわけなければ、気にスンナ派。 愚か者が賢く生きようとしてなお愚かにドツボ。 じゃ、べたに愚かに書いたらいいじゃん。 って

    今朝の増田 - finalventの日記
  • 極東ブログ: ハイパーグラフィア

    ハイパーグラフィア(Hypergraphia)の話をブログ「Passion For The Future」のエントリ「書きたがる脳 言語と創造性の科学」(参照)で見かけた。同エントリは、「The Midnight Disease: The Drive to Write, Writer's Block, and the Creative Brain」(参照)の邦訳書の書評的な話から切り出されたもので、ハイパーグラフィアは文章を書かずにはいられない精神の病気だという流れであった。 ハイパーグラフィア(書かずにいられない病)とライターズ・ブロック(書きたくても書けない病)について、自ら両方の症状を経験した医師でもある著者が、脳科学と精神医学の視点で言語と創造性の科学に迫る。 ハイパーグラフィアというタームは、そのジャーゴンが The Midnight Disease (深夜の病)という語感から私

  • 書くということは - finalventの日記

    八百屋さんが野菜売るのと、お巡りさんがお巡りしているのと、釣具屋のおっさんが買い物客と話しているのと、そういうのと同じ。 そういうのと同じではない次元で書いたものなどくだらね。 人はただ生きている。 人によってはただ書いている、そんだけ。 そして書くということの意志があるなら、25時に書けと。睡眠時間を一時間削って書けと。 以上、吉隆明の遺言みたいなものかな。 以前にも書いたな。 水の上にパンを撒く、まあ。

    書くということは - finalventの日記
  • ぶくまで知ったのだけど、ブログが終わるときというか - finalventの日記

    はてなブックマーク - kmizusawaの日記 - ご挨拶 ⇒kmizusawaの日記 - ご挨拶 kmizusawaさんの日記はぶくまに上がると見る程度だったのだけど、先日の都知事選関連についてはずいぶん率直な意見だなと関心したことがあった。 で、と。 ここしばらくブログを更新しながら、ときどきいただく批判コメントやトラックバック等を参考にあれこれ考えた結果、「別に私が発言する必要なんてないんじゃないか」という結論に達しました。私はもともと「伝えたい」とか「共有したい」という感覚があまりなくって、書きたいことがメモ的に書ければいいので(長文になるのはただの癖)。 まあ、それをいうと私も同じかなとも思うし、ただ、なんかそうでもないような気もしているので、ただ惰性で続けていますね。 また、表面的には個別のエントリ内容への批判の形で、事実ではないことや勝手に思い込まれた意図を前提に、まった

    ぶくまで知ったのだけど、ブログが終わるときというか - finalventの日記
  • いろいろ思った - リツエアクベバ

    うまく言えないけど、自分は爺とか言われるし、自分でもそう嘘ぶくけど、最近、なんか、若いときの胸きゅんてきな切なさみたいな感情とか生き返ってくる面もあるし、それは多少、ブログとか日記とかにも関係しているような気がする。10代、20代のときの、もう返ってこないはずの切ないような心情が、ふっと蘇ることがある。(あと足がすこし軽くなった感じで、ふと歩きながら踊り出したい気持ちもするし、水のなかの感覚から大気中を飛んでいるように風を感じることがある。) ぶくまで知ったのだけど、ブログが終わるときというか/finalventの日記 ぱちぱちぱちと拍手してスキップらんららん。わかる。 しかし昭和32年生まれで「爺」かあ…。まいったなあ。この方が小学校の6年生のときに低学年やってた自分は「嬢」と出してるわけで。いや言ったモン勝ちだから。 日々、ブログという媒体に何か書く、書き留める。それはなんぞや。このな

    いろいろ思った - リツエアクベバ
  • うまい文章? - finalventの日記

    ぶくまを見ていると定期的にというか定常的に文章術関連のものが上がってくる。が、私の見た範囲ではこれはと思うものは一個もなかったように思う。というか、どれもこれもそれはすでに聞いたよ、みたいなのが多い。 私は文章がうまくない、というか下手だ。というか、文章というのは自分の身体のようなもの、というか、心の形みたいなものあるいは内臓の形みたいなものなので、どうとなるものじゃない。ただ、いわゆる文章うまい人は人の存在としては弱い。あるいは、文章がうまい人はその人の生き身の身体が伴っていない感じがする。批判ではないつもりなのだが、最近はネットにいないみたいだが松永さんは各種の文体を駆使して見せる芸をときたまやっていた。さすがなものだなとは思うが、彼自身の息づかいの殺し方がうますぎるのではないかと思った。 あと、なんども書いたのだけど、ある種の雰囲気、詩情的というのか、あるいは偉そうなスタイルというの

    うまい文章? - finalventの日記
  • 物を書くということと、書いて食うということについては - finalventの日記

    私は書きたくない、というのが正直なところ。 書くというのは、私にとっては、ごにょごにょ。 ブログとか日記を書くということは、私にとっては、ま、特に考えないでそうしている。 この手の物は誰かが読むというものではなく、自分という人間が書かずにはいられないお病気みたいなもので、そんなもの。でも、まったく読む人のことを考えてないわけではない。 で、生活というのは、つまり、働くということは、これは、難しいね。 具を作って人様の役に立つか、ずるこく人様の上前をはねるか、その2つだけ。 これを書くということに繋げるというのは、ある面で原則論で言うなら、好きなことでえるということでもあるのだろうけど、ま、難しい。実現が難しいというのではなくて、それをどう考えるかが難しい。 幸運とか才能とかあるといいのでしょうけどね。 ありますかね? 努力とかで補えるものでしょうかね? ま、わかんないです。 漱石とか読ん

    物を書くということと、書いて食うということについては - finalventの日記
  • 文章の敵は美学 - finalventの日記

    文章のうまい人間はえてしてすかすかなもんだなと思う。まあ、いろいろな文章があってもいいし、資主義にあっては、文章の価値とは、一義に売文だ、いろいろな形態であれ。それはそういうもんだというしかない。 で、ブログというのはそういう面もあり、そうでない面もある。ただそれだけのこと。 そうでない面では、糞の価値にもならない文章が書けるということ。ああ、自由だ。 文章には技術というものがあるのだろうと思うし、書いていれば、ああ、こういうのが技術かと得心するのがあるが、なぜかそういう文章技術は、いわゆる文章技術には書かれていない。その理由もなんとなく思うが略。 で。文章の敵は美学だと思う。なにかを完成させたり、名文というかそういうのを書きたいという思いだろう。あるいはそういう視点での評価だ。なぜそれがだめかというと、結局それは既存のロマンとかポエムとか、セカンドハンドな類型に堕するからだ。 文章

    文章の敵は美学 - finalventの日記
  • 更新頻度が低いことは良いことだ。

    情報社会。 その中にどっぷり浸かっていると、 サイトの量も、投下される記事の量も 増えすぎてとても追い切れなくなる。 そういう人にとって、情報の質も高く、更新頻度も高いサイトは 自分が読まなければならない情報量を大幅に増やしてしまう元凶だ。 結局、消化不良を起こすだけなのだ。 RSSというのは画期的な発明だ。 閲覧者が要求する度にページが送られてくるクライアント-サーバー型から、 予め購読したブログのプッシュ型サービスへの転換という図式。 これはブログ界における、ひとつの革命だったのだと思う。 しかしこのような、一方的に記事が送り届けられる(ように見える)環境では、 送られる記事の総量が手に負えなくなると、そりゃあもうウザくなる。 更新頻度が高いブログは常に整理対象だ。 情報の淘汰はもう始まっている。 更新頻度が低く、情報の質が全体的に高いブログは生き残る。 更新頻度が高く、情報の質が全体

    更新頻度が低いことは良いことだ。
  • いつか本名でブログりたい

    まともに働いてまともに生活して初めてそれが出来る気がする。 誇らしくブログりたい。 今はそうできないから名無しってる。 ヤマシイコトがなければ毎日を精一杯生きていれば名でブロぐれる日が来る。 名前を出してネット出来てる人がとっても羨ましい。

    いつか本名でブログりたい
  • なんのためにブログを書くかといえば - finalventの日記

    自分を理解してほしいからでしょ、ということでもいいと思う。 ただ、自分が孤独で愛してほしい、関心をもってほしい、というほどでもない。 っていうか、それだけのエネルギーもないのだけど、歳取っちゃってさ。 でも。 卑近な例で言えば。 これって問題でしょ たとえばこれ⇒極東ブログ: ダルフール危機からチャドにおけるジェノサイドの危険性 これって美味しいよ。 たとえばこれ⇒極東ブログ: 金時豆フェジョアーダ(Feijoada) で。 「極東ブログ」にしろ、結局のところfinalventさんが何を言いたかったのか、いつも分からないんです。 と言われても、私のエントリの全てを理解しようとしなくていいのでは。 それに。 ダルフール危機は人類にとって大きな課題なんだ、というのは、それほど「結局のところfinalventさんが何を言いたかった」というほど理解が問題なのでしょうか? ホロコーストがありルワンダ

    なんのためにブログを書くかといえば - finalventの日記
  • ビジネスブログではないけどビジネス的ブログっていうか - finalventの日記

    とても切れるブロガーとかいる。 でも、一年保たないように思える。つまり、なんというか、自滅系。(理由を付けて去っていくのは自滅の証明ではないのだろうか。) あるいは一年は経過しても、定常的に書いてないというか、たまに書いていて人気というか。で、それっていうのは、いわゆるエクセントリックな手法を伸ばしているだけで、やはり自滅系の変奏ではないのか。 ま、非難とかじゃないのだけどね。 ブログというのは、それがとても切れるとか人気があるというより、ただ、続いているというのにけっこうな意味がありそうに思える。 ま、そういうと自己弁護的に聞こえて嫌がられるのだろうけど。 これって、でも、ビジネスに似ているわけで。 ビジネスというのは、成功・失敗とかよく議論されるけど、現実的には、長く続けていればいいのですよ。というか、近江商人とかの智恵とか以前見ていて、たいていは凡庸なんなんだけど、存続の原理が優先さ

    ビジネスブログではないけどビジネス的ブログっていうか - finalventの日記
  • 「ブログが怖い」という心理 - べにぢょのらぶこーる

    ココで積極的にミクシィへの愛を綴っているせいか、 ときおりミクシィでファンレター的なメールをいただくことがあります。 いつも読まずにべてしまうのでまた送ってくださいね。*1 で。 いただいたメールでよく見かけるのが、 「ブログをやる勇気もない小心者ですが」「ブログは怖くて開設できないけど」 という一文。 あぁ、この気持ち分かる。そう、ブログは怖い。 ブログをはじめたばかりの頃って、イヤホンをしたまま好きな歌を歌っている状態に近いかなぁって思います。 自分の声がどこまで届くか全然わからないので、最初は恐る恐る声を出す。 お、なかなかイイ感じ?アタシけっこうイケてるじゃん! おーれーはジャイアーン!がーきだーいしょー♪ のびたは笑顔、スネオもベタボメ。ドラちゃんもニコニコ。 自分の目の届く範囲にいる人間の反応は優しい。自分の歌を聞いてるのは彼らだけだろう。 けれどある日気づいてしまうのです。

    「ブログが怖い」という心理 - べにぢょのらぶこーる