織田信長の父・信秀が三河の岡崎(現在の愛知県岡崎市)を一時的に支配していたことが、村岡幹生・中京大教授(日本中世史)の研究で分かった。今春刊行の「愛知県史資料編14」で公表された。徳川家康が幼少期に「誘拐」されて織田家の人質となったとの通説も誤りの可能性が高いという。 村岡教授が注目したのは、新潟県三条市の本成寺が所蔵する、法華宗の高僧、日覚が尾張や京都からの情報を記した「菩提(ぼだい)心院日覚書状」。 「岡崎は弾正忠へ降参し、命からがらの様子」「弾正忠は三河を平定し、翌日、京都に上った」などと記されている。「弾正忠(だんじょうのちゅう)」とは、当時の官職の名称で、織田家は信長まで3代にわたってこの職を名乗っていた。村岡教授が現地で調査したところ、この書状は1547年(天文16年)に書かれたことが判明し、弾正忠とは信秀、「岡崎」は家康の父、松平広忠を指すことが確認されたという。 広忠は信秀