「ちっ、性欲が…OKグーグル、一番近くの風俗店は?」 『6km先です』 「……ま、そんなところか」 『風俗店なら』 「?」 『性欲は大人の女だけで解消するものではありません』 「……そうだったな」 「OKグーグル、一番近くの幼稚園は?」 『200m先です』 「最高だ」
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今はほとんどなくなってしまったけれども二十代の頃の僕を回想すると、毎日のように、父がなぜ死んだのか、死ななきゃならなかったのか、その理由について考えていたように思える。父は答えを遺さなかった。ヒントの欠片さえも。なぜ、答えがないクイズを必死に解こうとしていたのか、今ではよくわからない。非現実的なことが現実になったしまった事実と自分の気持ちとで折り合いをつけようとしていたのか、あるいは、現実から逃げていただけなのかもしれない。父が亡くなってから四半世紀が経った。タブーにしているわけではないが家族のあいだで父の話題が出ることも少なくなった。自転車の乗り方を教わったこと。捨てられていたワンコにウルトラ民主的な方法でタローと名付けたこと(「タロウとレオならどちらがいい?」「タロウ!」)。父との思い出は楽しいものばかりだ。終わりかたが少々悲劇的であったことを理由に、父の人生が否定されてはならないが、
たとえば体罰とかハラスメントとか果てはストーカーとか痴情のもつれとか、たびたび加害者が「愛してるからやったんだ」「愛情がない相手にはそんなことしない」みたいなことを言ってるのを見かける。 それを見てみんな「ふざけるな」「そんな言い訳が通じるわけないだろ」と憤る。ここまではわかる。 「お前のそれは愛ではない」「お前の愛は正しくない」こうなってくると俺はちょっとわからなくなる。 別に愛だろうがなんだろうが知ったこっちゃないがダメなもんはダメ、で良くない? それが本当の愛だったとしても加害を正当化する理由にはなりません。それじゃあダメなの? なぜ人は、他人の愛が本当の愛か、正しい愛かを判断しようとするのだろう。 それは結局みんな「本来なら許されない何かが愛を理由に許されることがある」と信じてるからなのではないだろうか。 愛を理由に自分の行動を許される余地は残しておきたいと心のどこかで思っているか
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