2012年、事故調査委員会での菅直人氏。御厨氏には答申を出した後の菅氏との会話で忘れられない瞬間があった ©文藝春秋 東日本大震災復興構想会議に関しても、ビジョンをもっていませんでした。立ち上がった2011年4月の当初、私たちに対して彼は「答申は12月に出して欲しい」と言ったのです。「復興政策を作るのにそんな悠長な……」と思っていると、案の定、今度は「中間答申で6月だ」と言い出し、5月の終わりにはまた呼び出して「もう復興の議論はおわりにしてください。6月で答申を出してください」と日付まで6月25日に勝手に決めてしまった。 そのときには「復興会議の後に自然再生エネルギーの委員会を作りますから、そっちで忙しいんで」と言うばかりで、もう彼の関心は復興にありませんでした。彼にとって第一は政権の延命で、再生エネルギーにそれを賭けた面もあったのでしょう。 振り回された記憶ばかりが残っていますが、中でも
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