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思想に関するindepthのブックマーク (2)

  • 政治思想の分類方法

    序論 稿は、「左と右」という曖昧な政治分類をやめて、複数の観点を組み合わせる政治分類に移行することを提唱するものである 政治家やマスコミの政治思想を分類するとき、マスコミやインターネットコミュニティの中では、「左」と「右」という分類が用いられてきた。だが資主義と共産主義、大きな政府と小さな政府、親中派と親米派、憲法9条改正の賛否など、様々な局面での政治的立場を、単に「左」と「右」で分類することはできない。例えば「大きな政府−小さな政府」はいずれも、資主義に結びつくこともできるし、社会主義に結びつくこともできるからである。 確かに「左と右」という言葉で分類するのは簡単である。しかし、「左」と「右」の定義は、人それぞれ違う。政治について語ろうとする人は、それぞれ己の重視する事項を、「左と右」で説明しているにすぎない。そのため重視する事項が異なる人間同士では「左と右」という概念を共有しあえ

  • 「憎悪の表出」としての保守、という話 - H-Yamaguchi.net

    内容は、まあタイトルから想像がつくとおり。とはいえこれだけではさすがにわからないと思うので、出だしの段落を引用してみる。 この十年は戦後保守の最盛期だった。保守的な言説が広範に浸透し、日政治基軸は確実に右にシフトした。だが、皮相な盛況の影で、思想内容の空疎化が進んでいるのではないか。九〇年代末辺りから保守陣営内で囁かれはじめた危惧が、いま現実の危機として露呈しつつある。 もともと保守には「アンチ○○」といった具合の「仮想敵」が必要であるが、90年代以降それが失われたために再構築を強いられた。努力はされたものの、皆が一致しうる「敵」が見出せず、またその基盤を支える社会構造もゆらいできたため、次第に細分化、断片化する様相を見せている、という。もはや保守の美点であった現実主義すらも失い、「平和さえ唱えていれば、それが実現すると信じた空想的平和論者の姿勢と瓜二つ」と喝破される状況、なんだそうだ

    「憎悪の表出」としての保守、という話 - H-Yamaguchi.net
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