絓氏は「はじめに」において、本書の目的を「従来形成されてきた「国民的」知識人としての柳田を覆そうとする試みである」と述べると同時に、「ただし、本書の論述は、きわめてオーソドックスなものと信じる」と書く。アカデミズムを挑発しつつ対話の態度を放棄しない非常にカ氏らしい言葉である。 本書の主要なテーマは、柳田国男が生涯を通じてクロポトキン主義者だったという「発見」を軸にして、柳田のテクストを再読し、柳田についての従来からの様々な神話的言説を批判するというものである。しかしクロポトキン主義者だったことがどうして「国民的」知識人としての柳田像を覆すことになるのか。このことを理解するには、幾つもの補助線を引く必要がある。絓氏が暗黙の前提としているジャーナリスティックな文脈を理解できている自信はないが、私が考えるに、そこには冷戦後の日本のリベラルな言説空間におけるアナーキズム的文脈の忘却・排除に対する批
六月に絓秀実の新著『アナキスト民俗学』の書評を『週刊読書人』に書いた。それについては絓氏からツイッターで応答があり、戦後民主主義における性の解放・男女平等が、「王殺し」の証拠ではないかとの反論があった。この問題については、いずれ日本国憲法論を本にできる時が来れば(毎年言っているけれど)、そこで答えられるようにしたいので、今はこれ以上触れない。ただアナーキズムについては、話は逸れるが、坂口安吾との関連で思い付いたことがあったので、備忘的に書き留めておきたい。 今年度前半の大学の講義は安吾がテーマだった。 専ら年代順に有名な作品を拾い読みして行く授業で、当然最初に「風博士」をやることになり、一応論文を調べてみたのだが、その中に山根龍一「坂口安吾「風博士」論―福本イズム・小谷部全一郎・浪漫的英雄主義の内在的批判―」(「日本近代文学」二〇〇七・一一)という論文が目に留まった。この論文は副題の通り、
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