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差異に関するj708のブックマーク (2)

  • たとえ「幻想」だとしても - Sound and Fury.::メルの本棚。

    小説読者の質は果たして落ちたのだろうか*1」について、少し考えることがあったのでメモしてみる。 佐藤亜紀の「この世からは小説を読むための最低限のリテラシーさえ失われてしまったらしい」という意見に対し、筆者は違和感を覚えるという*2。その理由として、「「昔」とか「かつて」が「上等」で、「現在」や「いま」が「劣等」であるという議論は、気をつけたほうがいい」からだとする。そして、メルヴィルは『白鯨』以降の作品で、同時代人に評価されなかったことや、ホーソンも当時の「センチメンタル・ノベル」に対し、うらみつらみを日記を書いているなど例に挙げ、昔から「エモい人」はいたのだと主張する。そして、いつの時代も「小説の質」は低いのだという。 これは、はなはだまずい書き方だと思う。これだと、あらかじめ「小説の質」なるものが存在しているかのような印象受けてしまう。だが、筆者はすぐ近くで、こうも言っている。すなわ

    たとえ「幻想」だとしても - Sound and Fury.::メルの本棚。
  • 分かるということ - Arisanのノート

    他人のことが分かるという場合に、自分の経験や心理から想像して、つまり相手と自分を同一性においてとらえて「分かる」という意味と、他人と自分との差異を「分かる」という意味との、二つがある。 前者の意味で分かったとき、相手と自分との差異は消えてしまう。言い換えると、相手の生や経験は、自分の経験の中に呑み込まれてしまう。他人のことが分かったというのは、結局自分自身を分かったということに過ぎないのではないか、という疑問が生まれる。 一方、後者の「分かる」は、難しい。他人の経験が根的には想像不可能であることを認識するということだが、そのためには前者の意味での分かろうとする努力、つまり自分の体験を拠り所(参照)にしながら相手の経験や心理を想像する努力が、まず必要ではないかと思う。その努力の挫折によってだけ、差異を分かるという意味で、ぼくたちは他人のことを分かることができるだろう。 一番厄介なのは、そう

    分かるということ - Arisanのノート
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