ゲームにおいて「飽きる」という言葉は死よりも強い印象さえあるように思う。 まあゲームの死=リトライ継続であるという構造的な意識から、相対的にプレイヤー主導で決定的な終わりを迎えるものが飽きとなるのかな。そのへんちょうど人間の人生における死と飽きとは逆の意味になっているのは一回性のものかそうでないかということだろうか。そしたら一回性ではなく強い輪廻主義を持つ人なら死を恐れず飽きこそを恐れるのか。いや…、逆にそれは悟りか。迷いの対極。まさに解脱。グッドエンドだ。仏教は迷いを減らす手続きゲームとして悟りというゴール求める? でもそれを達成したら、その後はどうなんだろう。そこは一つのステージに過ぎなくて、さらなる悟りのために終わり無く上昇して継続することが保証されているのかな。悟りプレイヤーのためのネクストステージ。おそらくそれは非悟りプレイヤーにとっては見えないから、結果として果てが無いとしても